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 寝台に横たわっている人の様子を見ると、出て行った時と変わらず眠っている。
「陛下、眠っている?」
「はい」
 クロードが仮眠室に入って来て、フィリネグレイアに尋ねる。彼女は頷いて答えた。
 彼の口調が砕けたものに変わっている。フィリネグレイアは少し前に、クロードの自分への対応が仕事用に変わってしまったことに落ち込んでいた。しかし、今の彼女がその変化に気付いて喜んでいられるほどの余裕は無い。
「陛下が目を覚まされたら教えてくれ」
「はい」
 いつもの彼女なら話している人の方を見て返事をするのだが、どうにも眠っている人へ神経を研ぎ澄ませているためか、返事が上の空である。
 これもしょうがないのかなとクロードは苦笑して仮眠室を出る。
 残されたフィリネグレイアは国王の寝顔をじっと見つめる。
 早く目を覚まして、声を聞かせてくれないか。
 十分に睡眠を取って、早く良くなってくれないか。
 相反する思いが頭の中でぐるぐると回る。悲しくて泣きたいのか、腹立たしくて怒りたいのかわけのわからない感情も相俟って、頭がパンクしそうだ。
 フィリネグレイアは深く大きく息を吐いた。
「もっとご自分を労わって下さい」
 それが一番この人に足りないものだ。
 それが一番この人に必要なものだ。
 視線を外し寝台の近くにある机に置かれている袋。そこに書かれている内容からして、医者が処方した薬だろう。
 医者は彼に薬や処置でこの人を癒す事が出来る。
 部下は彼への仕事の負担を助ける事が出来る。
 では、自分は?自分には何が出来るだろうか。
 立場が不安定で、何も出来ない自分。国王の婚約者という肩書はあるが、何の権限もない。
 だが、諦めてたまるか。
 “行動しなければ、何も変わらない”
 フィリネグレイアは己の信条を胸の内で唱える。
 今後どうしようか考えていると、目の前で安らかに眠っていたはずの人が眉間に皺を寄せて身動ぎし始めた。目が覚めるのかと見つめていると、ゆっくりと瞼が持ち上げられる。
 現状を把握するためか視線を動かしている。まだ完全に覚醒していないのだろう。
 フィリネグレイアは小さな声で声をかける。
「お気づきになられましたか?」
 声をかけると先程まで眠っていた人、国王は彼女を見た。
「何故、貴女がここに?俺は、何で」
 いるはずのない人物が目を覚ましたらいるのだから、そりゃあ驚くだろうな。
 フィリネグレイアは簡潔に国王に説明する。
「わたくしはこちらに来て、陛下が倒れられたと聞きました。お医者様の診察では原因は疲労と睡眠不足だと」
 フィエネグレイアは国王が目を覚ますまでの今にも折れてしまいそうな雰囲気を一瞬で払拭し、いつも通りの彼女になる。
 フィリネグレイアの言葉を聞いた国王は額に手を当てて深く息を吐いた。
「今何時」
「14時52分です」
 時間を聞くと国王は無言で身体を起こす。起きたは良いが身体に力が入らないようで、倒れそうになった。フィリネグレイアは慌てて彼を支える。
「大丈夫ですか」
「ああ」
 絞り出す様に声を出し、フィリネグレイアの手を掴み自分から離す。
 見るからに大丈夫そうではない。
 目眩がするのか、険しい表情で寝具とフィリネグレイアの手を握り締めて耐えている。握りしめられた手が痛い。この痛み以上の苦痛をこの人は必死に耐えているのかと思うと苦情など出るはずもなく、彼女は甘んじてこの痛みを受けた。
 しばらくそうしていると体調が落ち着いたのかフィリネグレイアの手を握りしめていた力が緩んだ。
「もう少し横になっていて下さい」
 フィリネグレイアはそう言い、椅子から立ち上がる。国王は何も言わずに彼女の手を離した。
 仮眠室を出るとフィリネグレイアはクロードの姿を探した。だが、彼は席を外しているようで姿が見当たらない。執務室にはイリアだけだ。
「ラグレイ子爵。陛下が目を覚まされました」
 扉の開く音を聞いてこちらを見たのだろう。彼は声をかける前に彼女の方を見ていた。
「分かりました」
 イリアは直ぐにどこかへ連絡を取り始める。
 それをぼんやりと眺めていたのだが、イリアが連絡を取りながらフィリネグレイアの方を見てこう言った。
「後ろにいる人が働かないよう、止めておいて下さい」
 フィリネグレイアが後ろを向くと閉めたはずの仮眠室の扉を開けられており、寝ているはずの国王が机に向かっていた。
「陛下!」
 横になって待っていろと告げたはずの人が後ろを歩いていたことに、フィリネグレイアは思わず声を荒げた。自分が出した声の大きさにフィリネグレイア自身が驚きつつも国王の方へ行く。
「横になっていて下さいと申したはずです」
「仕事に戻る」
 国王の言葉に、フィリネグレイアは自分の中の何かが切れた。
「いい加減にして下さい」
 フィリネグレイアは腹の底から絞り出すように声を出した。
 連絡を取り終わり2人のやり取りを見ていたイリアは、自分に向けて言われたわけではないというのに、怒りを含んだそれによって身体を硬直させた。穏やかな雰囲気の彼女しか知らないイリアにとって、フィリネグレイアの怒りを隠さず周囲へ撒き散らしている姿は衝撃的だった。
 何時だったか彼女の話題が出た時、ラオフェントが言っていた。
“彼女の怒りを面に出させてしまったら、覚悟しておけ”
 そんな状態にならないのが一番良いのだが、もし怒らせてしまった場合どうしたら良いのか。
 その時は、彼女の怒りを静められるのは双子の兄であるロベルトだけだからいざとなったら彼を呼ぶしかない、らしい。
 だが、双子の性質なのか、フィリネグレイアが怒っている時はロベルトも何故か腹を立てていることが多いのでヘタに接するととばっちりを食らってしまうらしい。ある意味二次災害である。
 かといって何もこのままの状態というのもよろしくない。とりあえず、彼にこちらに来てもらうよう連絡を入れておこう。
 イリアは目の前の状況に対して、自分の出来る事を始めた。

 怒りで周りが見えなくなっているフィリネグレイアは今居る場所が執務室であることも、ここに自分と国王以外の人がいることも全て頭の中から消えていた。
「何度も同じ失敗を経験しないと学習しないのですか、貴方は。寝台で休んでいて下さい。まだ仕事をする気ならわたくしは力ずくで阻止することになります」
 国王は言い返すこともせず、フィリネグレイアを見つめる。
「陛下?」
 しばらくの間国王が何か言ってくるかと待ってみたが何も言ってこない。不審に思ったフィリネグレイアは国王を呼ぶ。それでも国王は口を開かない。
 返答が無いことに苛立ちを感じ始めた。この人は私の怒りをあおってどうしたいのだろうか。人が怒るのを見て楽しいのか?
 フィリネグレイアの怒りが増したところで、ようやく国王が動きだした。
 彼は突然フィリネグレイアの手を掴み歩き始める。
 向かう先は先程までいた仮眠室。
「陛下!」
 国王の突然の行動にフィリネグレイアは驚いて避難するように国王を呼ぶが、国王はそれを無視する。向かっている方向が仮眠室なので部屋で休むのだろうかと思い、取り敢えずフィリネグレイアは国王の好きにさせる事にした。
 部屋に入る前に国王は立ち止まり、後ろを振り返る。
「1時間休む。その間にお前たちで処理出来るものとそれ以外の選別をしておいてくれ」
「はい、分かりました」
 イリアが素早く反応して返事をする。
 イリアの方へ視線をむけると彼は嬉しそうに笑って頷いた。それがとても珍しいことなのだが、怒っているフィリネグレイアは気付かなかった。
 フィリネグレイアは再び国王に手を引かれ、仮眠室へと入って行く。
 部屋に入っても国王は手を離さなしてくれない。かといって、離して欲しいとも何故か言う気になれない。そのまま国王はフィリネグレイアの手を掴んだまま寝台に座り、フィリネグレイアは少し前まで自分が座っていた椅子に腰を下ろす。
「陛下、横になってお休みになって下さい」
 国王は口を開いて何か言おうとした。だが結局何も言わず、フィリネグレイアに促されるがまま寝台へ横になった。
 目を閉じて深く息を吐く。
「時間になったら声をかけますから、それまでゆっくり休んで下さい」
 フィリネグレイアは国王の目の上に掴まれていない方の手を乗せた。そのまましばらくすると寝息が聞こえてきた。
 乗せていた手を離し、今度はフィリネグレイアが深く息を吐いた。
 まだ顔色は良くないが、起き上がる事も自分を引っ張って歩く事も出来た。今後注意すれば健康な状態を維持出来るだろう。
 フィリネグレイアの中に生まれていた“この人を失うかもしれない”という恐怖が遠ざかって行く。
 その事にとても安堵した。
 フィリネグレイアは飽く事無く国王の寝顔を見つめる。
 どれほどたった頃だろうか。中で寝ている人を起こさないよう慎重に扉を開けたのだろう。本当に小さな扉が開く音が室内に響く。視線をそちらに向けると意外な人がいた。
 フィリネグレイアは驚きで目を見開く。咄嗟にそちらへ行こうと腰を上げたが未だに繋がったままの手の事を思い出した。手を離したら起きてしまうだろうか。でも近くで話をしていても起こしてしまう。どうしたら良いものかと悩んでいるうちに扉を開けた人がフィリネグレイアの近くまで来ていた。
「あ、良く寝ているね。これなら少しここで話をしても大丈夫かな」
「兄様、どうしてこちらに?」
 フィリネグレイアの双子の兄、ロベルトが、寝ている国王の顔を見て小声で言った。
 ロベルトは今勤務中のはずである。その彼がどうしてここにいるのだろうかとフィリネグレイアは首を傾げて彼に問う。
「フィーが怒っていたから。でも、俺は来なくても大丈夫だったね」
 ロベルトの言葉にほんのちょっと前まで自分が怒っていた事を思い出した。
 自分がもっと感情を押し殺す事が出来れば兄が仕事を中断してここに来る事は無かったのに。フィリネグレイアは自分を責めた。
「ごめんなさい、兄様。お仕事中でしたのに」
「問題無いから大丈夫」
 落ち込んでしまった妹の頭を兄が優しく撫でた。
「だいたいの事はクロードさんとイリアから聞いた。倒れたのにまだ仕事をするって駄々をこねたんだろう?この人。それは怒って当然だよ」
 面白くないけど。とロベルトは心の中で付け足した。
「俺は全然構わないけれど気を付けないと大事な物を失うよ」
 ロベルトの忠告にフィリネグレイアは頷いた。
「はい、兄様」
「まあ、今度はお前が倒れないようにな。そうなったら俺は力尽くでも家に連れ帰るからな」
 棘のある口調でロベルトは言う。だが、それが妹の自分を心配しての事だと分かっているフィリネグレイアは苦笑した。
「さて、俺は仕事に戻るよ。ああ、そうだ。シアがフィーに会いたがっていたよ。そのうち遊びにおいで」
「はい。ありがとうございました、兄様」
 ロベルトはどうしたしましてと返して仮眠室を出て行った。