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 ロベルトが仮眠室を出ていくのを見送った後、フィリネグレイアはぼんやりと自分の怒りがいつの間にか治まっているのは何故だろうと考えた。無意識の内に視線が繋がれたままの手に行く。
 理由はこれだろうか。そうだとすると、少し複雑になる。
 フィリネグレイアは国王が苦手だ。
 国王と話す際は、何故か平常心を保つことが難しくなる。
 最近はだいぶ慣れてきて昔ほどではないとはいえ、出来る限り一対一での接触は避けてきた。
 怒りで我を忘れていたせいだとしても、2人きりで室内にいるどころか手を繋いるという現状は、これまでなら考えられない状態だ。
 これは良くない、とフィリネグレイアは思った。
 はっきりとこれの何が良くないのか説明出来るわけではない。だが、これは自分にとって非常に良くない。
 それに気づいたフィリネグレイアは恐怖を覚えた。急いで繋がったままの手を外し、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。
 それでも彼女はその衝動を押し殺す。恐怖を感じたが、それに屈指て国王から逃げる様にここから立ち去る事は、国王に負けたような気がするから。
 深く息を吐いて身体の緊張を解こうと試みる。
 先程まで何も感じなかったというのに、国王に手を掴まれている事を不快に感じた。
 掴んでいる指を一本ずつ外していく。国王の指は本当に眠っているのだろうかと疑問に思うほど力が入っていてなかなか外れない。何でこんなにしっかりと掴んでいるんだ。
 全て外し、フィリネグレイアは掴まれていた自分の手を見る。
 苦手な国王から解放されたというのに、何故か気分が晴れない。
 フィリネグレイアは眉間に皺を寄せて己の手を見つめる。
 考えてもその原因が分からない。とりあえず自分から国王の手を外す事が出来たのだからと、これ以上原因をつきとめようとするのを止めた。
 今度はこれからどう動こうか、フィリネグレイアは考え始める。
 国王は倒れたというのに一時間休んだだけで仕事に戻るつもりらしい。出来れば今日の仕事は仕舞いにして休んでもらいたいが、そう出来ないから国王は一時間の仮眠を選択したのだろう。
 ならば、終業時間までは仕事をさせて、その後は無理やりにでも仕事を終わらせて後宮で休んでもらう。
 その為には、国王が目を覚ますまでここにいないといけないだろう。場合によっては執務が終わるまで粘るかもしれない
 国王の部下は国王がこのようなるまで何度も休むよう進言したようだが、それを国王は聞き入れなかった。そして彼らは国王が無理をしてまで仕事をしてしまう心情を知っている分強行手段に移ることは出来なかった。だから、フィリネグレイアは国王の返答次第では、彼らが出来なかった強行手段を使う事にした。
 そういえば誰にも連絡を入れずに国王の執務室に来てしまった事をフィリネグレイアは思い出した。部屋を出てきてから随分時間が経ってしまっている。そろそろミュレアに連絡を入れないと自分を探し始めるかもしれない。フィリネグレイアは連絡を取るために椅子から立ち上がり、執務室へ移動しようとした。
 だが、彼女が椅子から腰を少しうかせたところで国王が身動ぎをした。驚いたフィリネグレイアは身体を硬直させて国王を見つめる。
 起きるな!と念を込めて見つめるがその願いは叶うことなく、国王は目を開けて辺りを見回し、やがて立ち上がろうとして中途半端な恰好のまま固まっているフィリネグレイアに視線を向けた。
 何をしているんだと無言で問われている。国王が怪訝な顔をしているのを見てフィリネグレイアはそう思った。いや、自分もどうしてこの状態で固まっているのか分からないのだが。
 居た堪れなくなってきたので椅子に腰を下ろす。
「まだ15分程度しか経っていませんよ」
 何事も無かったかのように話す。国王は無言だ。
「まだ休んで下さい」
「手を」
 やっと喋ったと思ったらこちらに手を差し出して来た。手を掴ませろということだろうか。
 何故?
 目を覚ましたといってもはっきりと覚醒しているわけではないようで、眉間にしわは寄っているがぼんやりとした表情だ。この状態でしつこく問い詰めるのも良くないだろう。そのせいでしっかりと起きてしまったら休んでもらえなくなる。
 折角外したというのに再び手を繋がなければならないのが何やら納得いかないが、仕方ない。
 これで良いのかと恐る恐る国王の手の平に自分の手を乗せる。国王は痛みを感じない程度にしっかりと彼女の手を掴んだ。
 国王は息を大きく吐いて目を閉じた。少しすると眉間にあったしわが無くなり穏やかな寝顔になる。
 手を離したらまた目を覚ましてしまうだろうか。
 試してみたいが、身体を休めてもらうために寝ているというのに、短時間に何回も目を覚ますのは逆効果になる。これは大人しく一時間程国王に手を掴まれたままで過ごすしかなさそうだ。
 先程感じた不快感は成りを潜めているがそれでも何とも表現しがたい感情が渦巻く。それが何なのか深く考える事をせず、フィリネグレイアは早くこの状態から解放されたいと思いながら国王の眠りを見守った。
 何とも言えない感情を持て余しながら、ぼんやりと国王を見る。
 あとの残り時間をどう過ごそうかと考えてみるが良い案など1つも思い浮かばない。
 のんびりと時が過ぎるのを待つか。
 国王から視線を外し、窓ガラスを通して空を見る。青い空に白い雲。良く見る光景なのに、久しぶりに見た様な気がする。
 静かであるのと掴まれた手から伝わって来る温かさでフィリネグレイアは段々と眠くなってきた。閉じそうになる瞼を持ち上げようとするが直ぐに落ちて来る。頭を振って目を覚まそうとするが眠気を振り払えない。ゆっくりと眠りの中へ沈んでいく。
 だが、完全に沈んでしまう前に彼女は引きあげられた。
「お嬢様」
 いつの間に入って来たのだろう。ミュレアがフィリネグレイアに声をかけた。
「ミュレア…どうしてここに?」
「ラグレイ子爵から連絡を頂きました。時間を持て余していらっしゃるかと思いましてこちらをお持ちいたしました」
 ミュレアはフィリネグレイアに一冊の本を差し出す。
「まあ、ありがとうミュレア。もう少しで眠ってしまうところだったの」
 フィリネグレイアが笑顔で受け取る。いつもだったら両手できちんと受け取るので今回も無意識のうちにそうしようとした。だが片方の手に重りがくっ付いていて、思うように動かせない。
 そういえば国王に手を掴まれているのだった。
 仕方ないのでフィリネグレイアは片手でミュレアから本を受け取る。
「仕事を増やしてごめんなさい。今日は何時に戻れるか分からないから、夕食は簡単な物を用意しておいてもらえるかしら」
「畏まりました」
 主人の要望にミュレアは直ぐに笑顔で頷いた。
 その笑顔のまま、彼女は無言でフィリネグレイアの手を掴んでいる国王のそれを容赦無く引き剥がした。
 ミュレアの行動にフィリネグレイアは目を見開く。
「え。ミュレア、どうしたの?」
「片手が使えなくては本を読めないではありませんか」
 フィリネグレイアは戸惑いを見せたが、ミュレアは自分のしたことは当然の事だと自信を持っている顔をしていた。解放されたことは喜ばしいというのに少しだけ胸にしこりが残る。
 ぼんやりと解放された自分の手を眺めているフィリネグレイアを見て、ミュレアの内にどんよりとした黒い感情が次々と生まれてきた。それをミュレアは表に出してはいけないものだと必死で抑え込む。この感情を爆発させては愛する主人を困らせてしまう。そう言い聞かせた。そうしないと彼女は言ってはいけない事を言ってしまいそうだ。
「では失礼いたします」
 礼をしてミュレアはフィリネグレイアの前から立ち去った。
 これ以上ここにいては抑えきれないから。
「ありがとうミュレア」
 フィリネグレイアはミュレアに笑った。その表情を見てミュレアは泣きたくなった。
 彼女は簡単に自分の感情を表に出すような経験を積んではいない。完璧に隠す事が出来る。だが、最後に彼女はどうしても伝えておかなければならない事を一言言い残した。
「陛下を、よろしくお願いいたします」
 ミュレアはそう言って部屋を後にした。彼女を見送った後、国王の様子を見る。手を離したら目を覚ますかと思ったがどうやら杞憂だったようだ。眉間に皺が寄っていたがそれも徐々に消えていった。
 国王が起きなかった事に安堵すると、次は先程までいたミュレアの反応が気にかかった。それと最後の言葉も。
 もしかしたら・・・という考えも浮かんだがそれは無いかと直ぐに打ち消した。彼女には大事な人がいる。その人物が誰であるかをフィリネグレイアは知っている。だから生まれた考えは絶対にあり得ない。
 今は感情が不安定になっているのかもしれない。そうでなければこのような考えを思いつくはずがない。それに、こんな事を考えてしまうなどまるで。
 彼女はそこで考える事を止め、ミュレアが持ってきてくれた本を読み始めた。


 読書を始めるとあっという間にフィリネグレイアは本の中に引き込まれていった。
 きりの良い所で本の中に沈んでいた意識を浮上させる。室内にある時計出時間を確認すると、もう少しで一時間が経つ。
 本を閉じて寝台の横にある机にそれを置き、フィリネグレイアは国王に声をかける。
「陛下、起きて下さい」
 意識して大きな声で言うと国王が小さく何かを呟いた。
「レ・・ァ」
 その呟きは誰かを呼んだ様に聞こえ、フィリネグレイアは息が詰まった。
 起きるだろうかと身体を硬直させていたが、それ以降の反応が無い。仕方がないので国王の身体を揺すってみる。
「陛下、一時間経ちました」
 今度は起こす事も成功し、国王はゆっくりと目を開けた。
 起こされたせいだろう。ぼんやりとした表情で天井を見つめている。
「おはようございます」
 国王は顔をフィリネグレイアの方へ向けた。その顔色はまだ良くないが、睡眠をとる前よりすっきりとした表情をしている。
「ご気分はいかがですか」
「悪くない」
 フィリネグレイアにそう返答し、国王は身体を起こした。
 国王が執務室へ戻る前に、と国王が寝台から降りようとしたところでフィリネグレイアは口を開いた。
「陛下、お願いがあります」
 真剣な表情をしているフィリネグレイアを見て、国王は立ち上がろうとしたのを止めて寝台に腰を下ろした。
 国王が話を聞く態勢になると、フィリネグレイアは自分の要望を口にする。
「体調が完全に良くなられるまで、せめて書類作業だけでも、定時で終わりにしていただけませんでしょうか」
 自分の発言に対して国王がどのような反応を返してくるのか正直に言うと恐ろしい。顔を下に向けて、国王から視線をそらしてしまいたい。
 だが、自分が強く望む事を伝える時は、伝える相手を見て話さなければならない。
 国王も真っ直ぐフィリネグレイアを見つめる。
「嫌だ、とは言えないだろうな。・・・善処する」
「約束はしていただけないのですね」
 国王の返答に、フィリネグレイアは膝の上に重ねていた手に力を込める。
「貴方をそこまで追いつめているのは何ですか」
 国王は驚いて少し目を見開く。
 まさかそれを彼女に問われるとは思わなかった。
 国王は真摯な態度でこちらを見つめるフィリネグレイアを見ていたら、どうしてか、ここで彼女に全てを話してしまおうかという気持ちが生まれた。そしてそんな考えが浮かんだことに更に驚いた。
 少しの間、国王は口を閉ざしたままフィリネグレイアを見つめる。
「定時になったら執務室に来い」
 それだけ言うと、国王は立ち上がり乱れた服を整えて執務室へ続く扉へ向った。危なげなく、しっかりとした足取りで歩く国王の後ろ姿を見て、フィリネグレイアは安堵し、手から力を抜いた。すると手は彼女の意思とは無関係に震える。その手を見て彼女は悲しそうに笑った。
 直ぐに気持ちを切り替え、フィリネグレイアも椅子から立ち上がり執務室へ向かう。

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