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 目的地に到着し、3人は執務室内に入る。中には国王側近の1人、レバイホート伯爵クロードしかおらず国王の姿はない。
「イリア!戻ったか」
 入ってきたイリアに気づいたクロードが、焦りを含んだ声音でイリアの名を呼ぶ。そんな彼の様子に只ならぬものを感じたイリアの声が固くなる。
「クロードさん。陛下は」
「仮眠室で休んでいる」
 クロードはイリアの問いに答えながら、彼の後ろにいるフィリネグレイアとラオフェントを見る。そして視線を直ぐにイリアに戻すとイリアは小さく頷いた。
「取り敢えず座ってくれ」
 クロードが執務室に置かれてあるソファに腰を下ろす。イリアはクロードの隣に座り、フィリネグレイアとラオフェントは彼らの向かい側に座る。
 フィリネグレイアは国王の執務机を見る。平時なら彼はあそこで仕事を熟しているのだろう。フィリネグレイアは小さく眉間にしわを寄せた。
 自分が予想していたよりも国王は疲弊していた。ミュレアに国王が忙しい理由を一週間以内に調べてこいと命令したが、そんな悠長に構えていられない。早急に原因を見つけなんとかしなければならない。フィリネグレイアはそう思った。

「あいつに何かあったのですか」
 ラオフェントがクロードに尋ねる。
「椅子から立とうとした時に倒れた。意識はあったが独りで立っていられない程疲労していたから仮眠室の寝台に押し込んだ。・・・働き過ぎだ。休めと再三忠告したのに全く聞かないからこうなる」
「医者は」
「呼びに行かせた」
 ラオフェントの問いにクロードが短く答える。いつも穏やかに人に接するクロードがこんなにも硬い表情でいるのを見てフィリネグレイアの胸に不安が生まれ始める。
 重い沈黙が落ちた。
 クロードの表情は険しいままで、イリアは相変わらず無表情にも見えるが若干不安が読み取れる。ラオフェントは呆れているようだ。
 フィリネグレイアは唯、国王の様子を確認したいと思った。だが、今のこの雰囲気の中で倒れた人の元へ行きたいとは言い辛い。
「ところで、二人はどうしてここへ?」
 重苦しい沈黙を破る様にクロードはフィリネグレイアたちがどうして執務室に来たのか尋ねる。
 フィリネグレイアは少し言いよどんだが、隣からラオフェントの視線を感じたので口を開く。
「わたくしは陛下が何故体調を崩されるほど執務をされているのか、その理由を尋ねに参りました」
 フィリネグレイアの言葉にクロードは少しばかり目を細めた。
「それを知って、貴女はどうする」
 己に何が出来るのか。そんな事、フィリネグレイアが今一番知りたい。だが、馬鹿正直にそんな事を言ってしまえばクロードは口を閉ざしてしまうだろう。
「わたくしに出来る事をするまでです」
「具体的には」
 あえてはっきりと明言しなかったというのにやはり突っついてきたか。
 切り返してくるだろう事は予想出来ていたので、フィリネグレイアは多くの人々を黙らせてきた笑み(主に対身内用)を発動させる。
「そうですね。まずは自覚の無いまま自分を追い詰めている阿呆の目を覚まさせることでしょうか」
 ほんの少しの沈黙を間に置いて、クロードは口を開く。
「それが君に出来るのか」
 あえて上司を阿呆と言われた事については無視をしてクロードはフィリネグレイアに再度尋ねる。若干顔が引きつりそうになっているのは笑いを堪えているからだろうか。フィリネグレイアの隣に座っているラオフェントはフィリネグレイアの方から顔が見えないよう彼女とは逆の方向を向いたが、肩が震えているのが見えた。イリアはフィリネグレイアの発言を聞いても表情を変えなかったが、なんとなく彼はフィリネグレイアに。
「危ないと分かっていて仕事を提供し続けた貴方方よりは、役に立てるとおもいますわ。わたくしに出来る最善を尽くさせて頂きます」
 フィリネグレイアがそれはそれは綺麗な笑みを浮かべて国王の側近への批難しつつ、暗に自分のする事を承諾しろと圧力を掛ける。だが、嫌味を言われつつ圧力を掛けられている方は、まだ数年と言えど国を動かすという非常に重圧のある仕事に関わって来たのだ。経験の少ない者に簡単に気圧されるような細い神経はしていない。
 幼い頃から知っている女の子の成長にクロードは嬉しさとともにほんのちょっぴりの切なさを感じていた。
 フィリネグレイアはクロードと幼いころちょっとした偶然で親しくなった。フィリネグレイアが彼と出会ったのは彼女が5歳のころだ。クロード既に王都にある国立学院で学んでおり、フィリネグレイアは両親が治める地で生活していた。どう考えても接点が無い2人であった。
 どうして彼らが知り合ったのか。
 フィリネグレイアが5歳の時、彼女は新年のあいさつのため訪れた王都で家族とはぐれ迷子になってしまったのだ。両親や兄の姿が見つからず、不安で泣きだしてしまったフィリネグレイアを見つけて慰め、彼女を両親の元に届けたのがクロードである。
 あの時の事を思い出すと今でもフィリネグレイアは恥ずかしくなる。すっかりなついてしまったフィリネグレイアはクロードと別れる際、随分と泣いたらしい。「あんなに泣いているところ、赤ん坊のときだってそう無かった。相当彼の事が気に入ったのだろう」と楽しそうに父から聞かされた時は顔から火が出るかと思ったものだ。その話をされる時は大抵クロードもいるときで、彼も懐かしそうに話に加わるので達が悪い。
 クロードは自分を慕ってくれているフィリネグレイアを、妹の様に可愛く思っている。かと言ってフィリネグレイアの望みを「はい、そうですか」と簡単に承諾などしない。むしろ、可愛く思っているからこそ、クロードは大きな壁として立ちはだかるべきだと考えている。
 だが、今この状況でそんな事をする必要性をクロードは感じなかったので、早々に承諾する。
その不安が、無意識の内に彼女を緊張させていた。じっとこちらを見つめる視線に負けたくない。 「何故そのような事を知りたい?」
「もちろん、陛下を心配しているからですわ」
 フィリネグレイアの答えを聞いて、クロードは前かがみ気味だった姿勢を正し、フィリネグレイアを見る。
「正直に申し上げますと、私どもの方からお教え出来る事はありません。陛下から直接お聞き下さい」
 これまでの砕けた話し方から余所余所しいものに変わった。クロードが国王の臣下として顔に切り替わった事をフィリネグレイアは悟った。
「どうしても、今お聞きすることは出来ないのですか」
「申し訳ありません」
 フィリネグレイアは食い下がってみた。だが、やはり無駄であった。これは大人しく彼の言った事を実行した方が良いだろう。
「分かりました」
 フィリネグレイアは溜息交じりに言い、少しためらいながらクロードに尋ねる。
「陛下の様子を見に行っても、構わないでしょうか」
「はい。ご案内いたします」
 どうやらクロードは完全に仕事対応に切り替わってしまったらしい。フィリネグレイアは寂しさを覚える。
 彼とは会えたとしても公式の場というのがほとんどで、昔ほど親しく話す事が出来なくなっていってしまった。昔は宴に出席した際に話す事も出来たが、彼は結婚してから宴には必要は時にしか出席しなくなったためその機会も激減した。
 クロードに案内されて仮眠室に入る。
「あちらで陛下が休まれています」
 彼が示した方向を見ると部屋に置かれた簡易な寝台に人が寝いている。
 クロードに視線を向けると彼は頷くだけで何も言わない。
 そろそろと寝ている人の方へと近寄る。後ろで扉の閉まる音が聞こえた。
 寝台のすぐ近くに椅子が置いてあるのだがあえてそれを使わず、フィリネグレイアは寝台の横で膝を折り、眠っている人の顔を見る。寝ているのにどうしてそんな表情が出来るのだろうか。眉間にしわを寄せていのを見てフィリネグレイアは苦笑した。
 額にかかっている髪をゆっくりと払いのける。
 思っていたよりも柔らかい髪の感触。
 髪を払いのけて現れた額に手を当てると、熱は無い様で己の手と同じくらいの体温だ。無意識のにゆっくりと撫でる。眉間のしわが段々と消えて穏やかな表情になった。それを見てフィリネグレイアは優しく微笑んだ。
 しばらくそうしていると、身動ぎをしたのでフィリネグレイアは咄嗟に手を離す。
 目を覚ますのかと身構えたが、目覚める事なく気持ち良さそうに眠っている。
 小さく息を吐くと、身体に入っていた力が抜けた。
 目を覚まさないので今度は椅子を引き寄せ寝台の横に置いて座り、寝顔をじっくり見つめる。こんな無防備な姿を初めて目にする。
 この人に初めて会ったのは約11年前。あの頃はまだ少年と言われる姿をしていたが、今は優しげな雰囲気をまといながらも一瞬で人を従えてしまう風格を持つ男性になった。簡単に己の懐に人を引き込んでしまう様に見えるが、実は物凄く警戒心が強い事をフィリネグレイアは知っている。
 自分はこの人の懐に入れて貰えるだろうか。
 フィリネグレイアは頭に浮かんだ言葉をすぐさま打ち消した。彼には既に一生を共にしたい人を見つけて手に入れている。共に国の象徴となる友として彼に信頼して貰う。それだけで十分ではないか。
 なんだか段々と腹が立ってきた。
 人を頼らず無理をしたあげく倒れて他の人に迷惑をかけ、今は気持ち良さそうに眠っているこの男の、なかなか入れてくれない懐に入りたいと、どうして自分は思ったのだろう。
 小さく溜息を吐いた時、扉を叩く音が小さく音が響き続いてイリアの声が聞こえた。
「失礼します」
 扉を開けイリアが入って後ろにいた医者を部屋の中に入れる。
 医者が中に入るとイリアは宜しくお願いしますとだけ言い残し執務室に戻って行った。
 フィリネグレイアは椅子から立ち上がり仮眠室を出るため扉の方へ向かう。医者とすれ違う時お辞儀をして仮眠室を出た。
 仮眠室から出るとイリアとクロードは仕事に戻っていた。国王が倒れたからと言って彼らはいつまでも仕事を放置しているわけにはいかない。
 ラオフェントは執務室に置いてあるソファに座ってお茶を飲んでいる。
 診察が終わるまでラオフェントと共に待たせてもらおうと、フィリネグレイアは彼の隣に座った。
「陛下の様子はどうだった?」
「熱は無いようでしたが、お顔の色が良くありませんでした」
「まあ、医者の診断をゆっくり待とうか。お茶を飲むかい?」
 ラオフェントの問いに首を横に振っていらないと意思表示した。
 フィリネグレイアは仮眠室へ続く扉を見つめる。
 国王を心配しているフィリネグレイアの様子を見てラオフェントは彼女に気付かれないよう笑みを浮かべた。今の状況でこのような心情は不謹慎だと分かっている。だが、フィリネグレイアが国王の事を心配しているということは、彼女にとって国王は失いたくない人だということだ。それがラオフェントは嬉しい。
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫だよ」
 フィリネグレイアはラオフェントの方を見る。彼女は泣きそうな顔をしていた。けど、きっと自分の前で泣かないだろうとラオフェントは確信している。その事に胸に痛みを感じたが、それを押し隠してラオフェントはフィリネグレイアを励ます。
「これからはこんな無茶をさせないようにフィーがしっかり支えるんだよ」
「わたくしに、出来るのでしょうか」
「出来るさ。今回の事、きっちりとあいつに反省させないと」
 フィリネグレイアは無言のまま頷き、再び扉の方へ視線を向ける。
 国王の側を離れた途端、彼女の思考は悪い方へと向かう。
 血の気の無い顔で眠りにつく、その姿はまるで死に向かっている人の様で、自分を置いて行ってしまうのではないか。フィリネグレイアは、そう思った。
 フィリネグレイアは幼いころからの癖で、ラオフェントの服をきつく掴んだ。不安になると彼女はこうして親しい者に助けを求める。だが、それを決して口にすることは無い。フィリネグレイアは自分の中にある不安や恐怖を自分の中に押し込めて表に出そうとしない。それらを押し込んでいた容器が満杯になり溢れ始める頃、初めて己の恐れを他の人に打ち明ける。この癖は、その容器がいっぱいになってきている状態を示している。
 国王が倒れた事で恐怖を感じたことを、彼女自身はっきりと認識していないのだ。
 思いっきり甘やかして閉じ込めている感情を吐き出させてあげたい衝動を押し殺して、ラオフェントはフィリネグレイアを見守る。
 自分はもうそれが出来る立場にいない。自分から手放してしまったから。
 しばらくして、仮眠室から医者が出てきた。フィリネグレイアとラオフェントはソファから立ち上がり、イリアとクロードは仕事を中断して医者の元へ集まる。
「陛下の容体は」
 クロードが問いかけると医者は皆を安心させるためか笑って答えた。
「疲労と寝不足が原因でしょう。ゆっくりと休むことが最大の薬ですが、一応疲れが取れやすい薬を処方しておきました。食後に飲むように。あと仕事量も減らすように。念のため後日検査を行うので都合のよい日を後で医務室の方へ教えて下さい」
 医者はそれだけ言うと執務室を出て行った。医者を見送るとフィリネグレイアは仮眠室へ入り、寝台の横に置いたままの椅子に座る。