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 庭師を別れた後、フィリネグレイアは王宮の中に入った。
 王宮内の廊下はまばらにだが人が行き交い、誰もがフィリネグレイアを見ると頭を下げる。彼女はそれにご苦労様ですと笑顔で声を掛けながら、不思議な感覚がした。
 国王と婚約する前に、フィリネグレイアは王宮に来た事がある。その際はすれ違う人に対して、互いにお辞儀をするだけだった。今では自分は彼らに対しお辞儀をしない。国王の伴侶、王族となる事が決まっているから。
 立場が変わるだけで己の周りに対する態度や、周りからの己への態度が大きく変わるのだということを分かっている。だが、彼女は頭の隅で笑った。立場が変わっただけで自分は何も変わっていないというのに。
「そこにいるのは、もしかしてフィー?」
 背後から聞こえた声に驚く。フィリネグレイアは反射的に体を声のした方へ向ける。彼女の視線の先には神官の服装をした背の高い男性が立っていた。彼の名はラオフェントといい、ロベルト、フィリネグレイア兄妹の幼馴染である。
 そして5年前まではフィリネグレイアの婚約者でもあった。
「ラオ兄様」
 ここにいるはずのない人物が目の前にいることに驚いたあまり、彼女は相手の名前を呟いた。そんな彼女の反応に気が付いているのだろう男性は笑顔でフィリネグレイアに近づく。
「やっぱり、フィーか。久しぶりだな、元気そうでなによりだ」
「はい、お兄様もお元気そうで。お会いできて大変うれしいです」
 久しぶりに会えた、兄として慕っていた青年。彼が昔と変わらず自分のことを愛称で呼んでくれたことが嬉しくて、フィリネグレイアは笑顔で答える。
「ラオ兄様はどうしてこちらに?」
 神官となった彼は、国教の本拠地である大神殿で務めを果たしているはずだ。その彼が何故王宮にいるのだろうか。
「私は王宮によく来るよ?大神官様にこき使われていて、陛下への連絡役を任されているんだ」
 笑顔を浮かべているラオフェントから告げられた事実に、フィリネグレイアは驚く。
「まあ。では、陛下の執務室へ行かなくてはならないのではありませんか?」
「ああ、大丈夫。もう仕事は終わっているから。それで、フィーが王宮に入ったと陛下から伺ったから様子を見に来たんだ」
 男性の言葉にフィリネグレイアは微かに眉間に皺を寄せた。それを見たラオフェントは話の方向を変える。
「フィーは午後の予定は空いているかな?午後は久しぶりに陛下とチェスをして過ごすつもりで予定を空けてもらったんだけど、どうやらあちらの方は忙しいみたいだから早々にお暇してきたんだ」
 先程訪ねた国王の執務室では、何やら大量の書類に埋まっている己の主と彼を補佐する友人たちが物凄い速さで作業をしていた。これではいつものように彼にチェスの勝負を挑めないと男性は諦め、早々に退室してきたのである。
 特に断る理由もなかったので、フィリネグレイアはラオフェントの提案を受け入れた。
「はい。午後は特に予定が入っていなかったので、これを機に王宮内を見て回ろうかと考えていました。実は昼食をまだ取っていないので見学も兼ねて食堂に行こうとしていたところです」
「私も昼食はまだなんだ。一緒に行ってもかまわないかな」
「喜んで」
 フィリネグレイアは笑顔を答えた。


 ラオフェントと共に食堂に到着すると、昼食を取るには遅い時間になっていたため、食堂にいる人の数が少なかった。食堂内は心地よい音楽で満ちている。
 2人席に着き、適当に軽食を注文した。
「それにしても、あと一カ月したらフィーは王妃になるか」
「ラオ兄様、婚約の儀の際も同じことをおっしゃっていましたよ。そんなに信じられませんか?」
 フィリネグレイアが不満気に言う。
「いや、フィーが王妃となる事は兄の様に見守って来た者として大変喜ばしいんだけど。なんだか少しさびしくてね。・・・小さかったフィーが遂に嫁に行くのか」
 感慨深そうにラオフェントは呟いた。
「あら。わたくし、本来なら15の時に嫁ぐはずでしたのよ?」
「そういえば」
 澄まして言うフィリネグレイアにラオフェントはくつくつと笑いながら言った。
「ラオ兄様はどうなんですか?」
「ん?」
 フィリネグレイアの言葉に、ラオフェントは首を傾げる。
「聖職者は結婚を禁止されているわけではありませんし。もう立派な神職に就かれていらっしゃるのですからそろそろお嫁さんを頂いても宜しいのでは?」
 フィリネグレイアの問いに、ラオフェントは困った顔をした
「うーん。当分その予定はないかな。頑張って口説いているけど」
「ラオ兄様の思いがお相手に受け取って頂ける事をお祈りしていますわ」
 フィリネグレイアがそう言った時、頼んだ軽食が運ばれてきた。
 2人は腹を満たすため食事を開始する。
「で。お相手はどなたなのですか?」
 まだ続くフィリネグレイアの質問に、ラオフェントは苦笑した。
「フィーがそういう話に食いつくとは思わなかった」
 昔からフィリネグレイアが興味を示す話題と言ったら勉強や園芸の話が多い。多くの少女たちが興味を持つ恋の話など、見向きもしなかったのに、今はラオフェントの恋の行方が気になっているようだ。
「兄の様に慕っている方のお相手ですもの。気にならないわけないじゃありませんか」
 フィリネグレイアは無難な返答をする。
「話せる時期になったら報告するから。安心して」
「約束ですからね」
 ラオフェントの言葉に、彼女はそれ以上追及することは無かった。彼がまだ話せる時期ではないというのなら、何時になるか分からないが、きちんと自分たちに教えてくれる時が来るのだろう。
 少しの間、2人は黙々と軽食を食べる。
 その沈黙を破ったのは、ラオフェントに問いかけるフィリネグレイアの小さな声だった。
「ラオ兄様、あの・・・1つお聞きしても宜しいですか?」
「答えられるか分からないけれど、良いよ」
 聞きにくそうに言うフィリネグレイアに、どうしたのだろうかと疑問を持ちながら、ラオフェントはあいまいな回答を返す。
「実は、陛下の事なのですけれど」
 フィリネグレイアから国王の事を聞かれると思っていなかった。ラオフェントは驚きを隠す事も忘れ、フィリネグレイアの顔をまじまじと見る。
 その視線に居心地の悪さを感じたのか、フィリネグレイアはラオフェントの方を見ず、自分の前にある食べかけの軽食を見つめる。
「今日の午前中、国立博物館の開館式典に陛下と共に出席したのですが、とても疲れていらっしゃるようでした。最近お忙しいとも陛下は仰っていましたので、わたくしでお手伝い出来る事があれば良いと思ったのですが」
 口から出てしまったのはしょうがない。フィリネグレイアは開き直って、自分の考えている事を正直に話した。
「ラオ兄様は御存じではありませんか?陛下のお忙しい理由を」
「私から聞くよりも、直接自分で聞いた方が良い。なあ、イリア」
 ラオフェントはフィリネグレイアの後方へ声を掛けた。フィリネグレイアが後ろを振り返ると、表情が読みにくい青年が近くにいた。
「このようなところで何をしているのですか、貴方は」
 イリアは真っ直ぐラオフェントを見る。
「何って、幼馴染と昼食を取っているだけだが?」
「神殿に戻られなくて良いのですか」
「半日休暇を貰っているから大丈夫。それよりも、君の方こそどうしてここに?仕事は?」
「その仕事のために他部署へ行って来た帰りです」
 どうやらその帰りにラオフェントがフィリネグレイアと2人で食事をしているのを発見したらしい。
「ほら、フィー。さっきのイリアに聞いてみたら?一応国王陛下の側近であるわけだし」
 一応は余計だろう。とフィリネグレイアは思った。
「ラグレイ子爵もお忙しいでしょうし、ご迷惑をおかけ出来ません。ラオフェント様はわたくしが責任を持って神殿へお返しいたしますので、ラグレイ子爵はお仕事へ」
 余計な事を言うな、とフィリネグレイアはラオフェントをにらみ、直ぐにそれの上に笑顔を貼りつけてイリアに顔を向ける。
 イリアはフィリネグレイアの顔を見つめた後、ラオフェントに視線を向ける。何故か誰も喋らないこの状況に、フィリネグレイアは居心地の悪さを感じた。
「オイネット嬢、何かお困りでしょうか」
 イリアが静かに問いかける。
「フィリネグレイア嬢は、陛下がお疲れのご様子だったのが心配なんだよ」
 余計な事を言うな、とフィリネグレイアは再びラオフェントを見る。だが、そんな彼女の視線が全く痛くないラオフェントは笑顔で返す。
 フィリネグレイアとラオフェントのやり取りを黙って見ていたイリアは小さく息を吐く。
「陛下の様子を見に行かれますか?」
 フィリネグレイアは驚いた。まさか彼がこのような提案をするとは全く予想していなかった。
「ですが」
「仕事中だからって断るのは無しだよ。むしろ仕事し過ぎなのを注意しに行くんだから今行かないと。イリアの許可が出るなんて滅多にないし」
 それは、彼がそうしなければならないほど国王は仕事に打ち込んでいる、と言うことだろうか。
 だが、どうしてそこまで国王は仕事に執着するのだろう。彼は自分を粗末に扱うことの愚かさを分かっているだろうに。
「イリアからのお許しも出たことだし、陛下の所に乗り込みに行こうか。ほら、フィーは早くそれ食べてしまいなさい」
 自分の目の前の皿にはまだ3分の1ほど残っているが、ラオフェントのは空になっていた。いつの間に食べ終わったのだろうか。フィリネグレイアはラオフェントの言う通り急いで食事を済ませる。
 その間にラオフェントとイリアは何やら話していた。食事に集中しつつ、そちらにも意識を向ける。
「イリアはどこの部署へお遣いして来たの?」
「産業部です」
「ということは援助金がらみか」
 ラオフェントの言葉にイリアは無反応だ。
 産業部、援助金という言葉からフィリネグレイアも何故彼がそこに行ったのかだいたい分かった。
 一ヵ月前地方で災害が起きた。その際、収穫目前の作物が駄目になってしまい、彼らの生活を守るため援助金を出す事が決まった。それに関連する資料を渡しに行ったのだろう。
 フィリネグレイアは気づかれないようイリアに視線を向けたが、直ぐに皿に視線を戻す。
 最後の一口を食べ終わる。口を拭いてフィリネグレイアがラオフェントを見ると、彼は席を立った。
「さて、フィーが食べ終わった事だし。陛下の執務室にちょっとお邪魔しようか」
 本当に行くのか、とフィリネグレイアは思った。反対するどころか自分にとって都合が良いので文句は無い。
 イリアの方を見て本当に良いのかという視線を送ると、フィリネグレイアを安心させるためか笑顔を浮かべた。フィリネグレイアは表情を表に出す事無く静かに佇むイリアしか知らない。そんな彼が自分の感情を表現したことが彼女にとっては新鮮だった。
 ラオフェントが席を立ち、歩き出す。フィリネグレイアも置いていかれないよう急いで立ち上がる。すると誰かが椅子を引いてフィリネグレイアが立ちやすいよう手助けしてくれた。驚いて後ろを見るとイリアが立っていた。どうやら彼が椅子を引いてくれたようだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。さあ、行きましょう。置いて行かれてしまいます」
 ラオフェントの姿を探すと彼はすでに食堂の出入り口付近におり、フィリネグレイアとイリアを待っている。
「そうですね」
 フィリネグレイアはそう言うと置いていかれないようにラオフェントの元へ歩き出した。