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 ひと通り温室の植物を見た後、夜も更けてきたのでフィリネグレイアは王宮に戻ることにした。国王がカベルへ車を玄関に回すよう手配した後、2人は温室を出た。
 フィリネグレイアは国王に、お疲れでしょうから見送りは結構ですと言ったのだが、国王は彼女と共に玄関まで来てしまった。
「陛下、本日はお招き下さりありがとうございました」
 フィリネグレイアは車に乗る前に、今日の礼を国王に言い、深々と礼をとる。
 国王は無言でじっとフィリネグレイアを見たまま動こうとしない。
 体を元に戻して国王を見たフィリネグレイアは、怪訝な顔をする。
「どうかされましたか?」
 フィリネグレイアの問いに答えるでもなく、国王は腕を持ち上げ、フィリネグレイアの頬に手を当てた。
 何を仕出かす気なのかと身体を硬直させ、フィリネグレイアは警戒する。そんな彼女の反応に国王は鼻で笑いながら頬をひと撫でした後、ゆっくりと手を離す。
「温室には好きな時に来るといい。気張りすぎて体調を崩さないように」
 国王は車の扉を開けるとフィリネグレイアの背に手を回し、彼女を車の中に押し込み、扉を閉めた。
 国王の突然の行動に混乱したフィリネグレイアを乗せ、車は発進する。
 車が見えなくなるまで、国王は玄関に立っていた。


 王宮に到着した後、無意識のまま行動していたようで、気が付くとフィリネグレイアは己に宛がわれた部屋の中にいた。
 明りが付いていない部屋は暗く、誰もいない。
 寝室に入り首飾りや耳飾りを取って鏡台の上に置く。次に髪飾りや髪留めを次々と取ってこれも鏡台の上に置いた。
 全て取り終わったところで、髪に手を差し込みぐしゃぐしゃとかき回す。固まっていた髪を大雑把に解いて手櫛で簡単に整え、左に髪をまとめてから髪留めを使って耳のあたりで一纏めに結ぶ。
 寝台の上に置かれている夜着などの着替えを手に取り、脱衣所に入る。
 流し台で化粧を落として入浴の準備を終わらせてから、フィリネグレイアは浴槽の中へ体を沈める。
 温かい湯の中に入ると、体に蓄積されていた疲れがすーっと外に流れて行くようで、ずっしりと重かった体が軽くなったように感じた。
 口まで湯の中に体を沈め、フィリネグレイアは何も考えずに前を見る。
 しばらくそうしていたのだが、不意に彼女は思い出した。
 王宮から帰る際の国王の行動。
 彼女は乱暴に湯をかき分け、上体を上げた。
 フィリネグレイアは国王が触った個所を濡れた手で触る。そして、彼女は触ってた手の甲で強く頬を擦った。
 それまで感情が読みにくい、無に近い表情をしていたのが一変し、とても苦しそうな、切なくて悲しくて泣きそうなものになった。
 強く、強く擦って、あの感触を痛みで忘れる様に何度も擦る。
 己の奥底から次々と何かが湧きあがって来る。
 それが不快感なのだと理解した瞬間、フィリネグレイアは癇癪を起しそうになった。
 湧き上がる不快感を発散するために、力いっぱい水面に腕を叩きつけ、大声で泣きたい衝動に駆られる。だが、彼女は己の欲求を抑えつけた。
 押さえつけて、不快感を段々と小さくしていく。やがて不快感は湧きあがらなくなったが、どろどろと彼女の内に溜まり心を暗くする。
 それを消化するかのように、彼女の両目から次々と涙が溢れた。
 彼女が涙が止まるまで湯に浸かり続けた。


 フィリネグレイアが湯から上がり寝室に戻ると、ミュレアが彼女を待っていた。
 何故ミュレアがいるのだろうか。フィリネグレイアは驚きで目を見開いた。
「どうして、ここに?」
 ミュレアは静かにフィリネグレイアを見つめる。
「お嬢様が後宮から戻られている頃だと思いまして」
「わたくしは“上がれ”と命じたはずよ」
「はい」
 ミュレアの声は静かで、フィリネグレイアが苛立っている様子が際立つ。
「なのにどうして貴女はここにいるの」
「貴女が荒れているだろうと思いまして。思った通り、ひどく不安定になっていますね。感情を制御出来ていない」
 ミュレアは淡々とフィリネグレイアの現状を告げた。
 少しの間、2人は見つめ合う。
 ミュレアの静かな表情を見て、フィリネグレイアは己一人だけ腹を立てていることが馬鹿らしく思えて来た。
「大丈夫、きちんと制御してみせる。自分自身だもの」
 ミュレアから視線を外し、フィリネグレイアは近くにある椅子に座る。
 溜息を1つ。
 湯に浸かり、疲れを取ったはずなのに、何故か体がだるい。
 太ももに肘をつき、額に手を当てて俯くと目を閉じた。
「きちんと髪を拭かないと、風邪を引きますよ」
 ミュレアはそう言いながら髪留めでまとめられたフィリネグレイアの髪を解き、タオルで拭く。少し乱暴なその行為に、フィリネグレイアは涙が再び溢れそうになった。
 遠慮のないミュレアの行動が、どうしてか心に沁みる。
「ここには私しかいませんから、ご自分の思うままに感情を吐き出してしまって良いんですよ」
 さっきは冷たい印象を受けるほど静かな表情をしていたのに、今の彼女の声はとても温かい。
「公の場で感情に流されたら呆れますけど」
「それは流石にしないわ」
 ミュレアの軽い口調に、フィリネグレイアは苦笑し、小さく笑い声を上げた。
 笑ったら、押し込めたモノの蓋が外れた。
 笑いながら、フィリネグレイアは涙を流す。
 何故自分は涙を流すのか、フィリネグレイアは明確に自分の中で答えを見つけられない。だが、恐らくミュレアの温かさのせいだろう。
 フィリネグレイアが泣いているのが分かっているだろうが、ミュレアは何も言わず彼女の髪の水分を取り、乾かす作業を黙々こなした。
 その優しい手の感触に、フィリネグレイアは癒され、やがて優しい眠りへと沈んでいった。


 フィリネグレイアはゆっくりと目を開けた。
 いつの間に眠ってしまったのだろうか、と眠りから覚めたばかりの動きの鈍い思考で考える。それから昨日の自分の醜態を思い出し、彼女は枕に顔を埋めた。
 ああ、久しぶりに弱い所を見られてしまった。いや、ミュレアが自分に仕えてから今まで、散々みっともないところを見られているので、今さらと言えば今さらなのだが。それでもやはりあのような姿を見られると恥ずかしさを覚える。
 ずっと寝ているわけにもいかないので、早々に気を取り直して起き上がる。
 脱衣所に行き、洗面台で顔を洗う。ぬるま湯で濡れた顔を、用意されていたタオルで拭き、己の顔を見る。心なしか、自分の表情が明るい気がする。
 昨日の夜、たくさん泣いた。目が腫れているかもしれないと思ったがいつも通りだ。自分が寝た後に、ミュレアが濡れたタオルを当ててくれたのだろうか。
 寝室に戻り時間を確認する。もうミュレアが来ているだろう。
 支度をする為、フィリネグレイアはミュレアを寝室に呼んだ。

「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ミュレア」
 入室と共に挨拶をしてきたミュレアにフィリネグレイアも返す。
「今日の予定だけれど、新しく設立した国立博物館の開館式典だけだったかしら」
 ミュレアに着替えを手伝ってもらいながら、今日の予定をフィリネグレイアはミュレアに確認した。
「はい」
「そう・・・昨日、上王陛下より温室の管理を譲って頂ける事になったわ。了承とお礼の手紙を式典前に書きたいから、用意をお願い」
「畏まりました」
 この会話が終わると同時にフィリネグレイアの着替えも完了した。
「髪結いと化粧はどうされますか」
「もちろん、朝食を頂いた後にお願いするわ。朝食の準備は出来ているかしら」
「はい」
 ミュレアの返事を聞き、フィリネグレイアは居間に移動する。居間には食欲をそそられる、美味そうな朝食が用意されていた。フィリネグレイアは空腹を満たすため食事を始める。
 広い部屋の中で1人黙々と食べる食事。
 何故だろうか。フィリネグレイアは、昨日の国王との夕食の事を思い出した。
 途中で食事の手を止め、物思いにふけるフィリネグレイアの表情はどこか寂しそうだった。


 フィリネグレイアは食事が終わると、ミュレアからトリエが髪を結うので寝室へ移動するように、と言われた。
 その言葉に従い寝室へ戻ると、トリエが鏡台の前で待機していた。フィリネグレイアは鏡台の前に座る。
「髪をお結いいたします」
「お願いするわ」
「今日はどういたしますか?」
 彼女はフィリネグレイアの後ろに立ち、どのように結うのか尋ねてきた。
「今日は式典に出るから公式の場にふさわしい髪型でお願いするわ」
 細かく指示するのではなく、抽象的に要求する。さて、彼女がどのような形につくり上げるのか楽しみだ。これ以上自分は指示しないという意思表示をするため、フィリネグレイアは鏡台に置いていた本を読み始める。
「畏まりました」
 トリエはフィリネグレイアの意思を読み取れたのだろうか、更に問うことなく作業に取りかかった。

 約30分後、鏡に映る自分の姿にフィリネグレイアは満足した。
「いかがでしょうか」
 鏡で確認しているフィリネグレイアにトリエが問う。
「上出来よ」
 フィリネグレイアの言葉にトリエは安心したように小さく息を吐いた。
「これからもよろしくね」
 フィリネグレイアは自分の後ろに立っているトリエの顔を見て笑顔で言う。
 トリエは驚いたようで大きく目を見開いたが、直ぐに可愛らしい笑みを浮かべる。
「はい」
「フィリネグレイア様、鏡の方を向いて下さい。時間がなくなりますよ」
 トリエの作業が終わる頃に寝室へ来ていたサヴィアローシャが、ほんわかとした空気で会話している2人を切り裂くように、フィリネグレイアの顔を鏡台へ戻す。
「ごめんなさい」
 フィリネグレイアはころころと笑いながら謝る。
 サヴィアローシャと仕事を交代し、トリエは髪を結うのに使った道具を片づけに退出して行った。
 サヴィアローシャに言われるがままされるがまま、フィリネグレイアは彼女に化粧を施される。
 その作業を見ながらフィリネグレイアは思った。
「わたくしも人の事言えないのだけれど、サヴィアローシャの名前は長いわね」
「はあ」
 唐突な主人の言葉に、サヴィアローシャは間の抜けた返事を返した。
「そうね・・・サーシャ、と呼んでもかまわないかしら」
「はい。親しい人たちにもそう呼ばれていますので」
「本当に?良かった。実は迷惑かと不安だったの」
 自分の提案が受け入れてもらえて、フィリネグレイアは嬉しそうに笑った。
 それを見たサヴィアローシャも自然と笑みを浮かべる。
「サーシャも、わたくしのことも名前でなくて愛称で呼んで頂戴」
「流石に、それは」
 主人を愛称で呼ぶのは憚れる。サヴィアローシャは苦笑した。
「公の場以外なら問題ないわよ」
 どうやら主人の中では、サヴィアローシャが彼女のことを愛称で呼ぶ事が決定している様だ。
「・・・分かりました。フィー様、で宜しいですか」
「ええ、宜しいです」
 澄ましてサヴィアローシャに返す。直ぐにフィリネグレイアは表情を崩し、笑った。