父親が帰った後、フィリネグレイアは再び長椅子に座って残りのお茶を堪能した。
香りが良くほろ苦いこのお茶を、フィリネグレイアは好んで良く飲む。
そう言えば王妹のルフィエアナといつも飲んでいた花の香りがするお茶を長い間飲んでいない。
何となく、その事を思い出す。
今度久しぶりに取り寄せて飲んでみようか。
「フィリネグレイア様、少しよろしいでしょうか」
別室で片づけをしていたはずのミュレアがいつの間にかフィリネグレイアの横に立っていた。
人の気配に敏感というわけでもないのだが、声をかけられるまでミュレアが直ぐ近くにいる事に全く気付かなかった。いきなり自分のすぐ近くに人の存在を認識するというのは何とも心臓に悪い。
フィリネグレイアは思わず、身を震わせた。
「どうしたの?」
取り繕い何もなかったかのように振る舞う。
「国王陛下から夕食を招待されていますが、いかがなさいますか?」
ミュレアの告げた事に、フィリネグレイアは眉間に皺を寄せた。
「どうするもなにも、断ることなど出来ないわ。分かりましたと返事をしてちょうだい」
「かしこまりました」
「あ、ちょっと待って」
了承を伝えに行くために下がろうとしたミュレアを、フィリネグレイアは呼び止めた。
「如何しましたか」
「荷物の片づけは予定より早く終わりそうなのよね?」
「はい、1,2時間もあれば終わると思います」
「そう。なら、今日の勤めは女官の方々と一緒に上がってしまって」
「いきなり、何故そのような事を?」
突然の提案に、ミュレアは仕事が早く終わる喜びよりも、主人が何か企んでいるのではと不安になった。
「何か仕出かそうと思っているわけじゃないから、大丈夫よ。ミュレアも久しぶりに王都に来たでしょう?まあ、いつもお世話になっているお礼だと思って」
良い事を思いついたと言わんばかりに、フィリネグレイアの表情は明るい。
だが、ミュレアはその提案に渋る。
「ですが、お嬢様の就寝のお手伝いがありますし」
「あら、それぐらい1人で出来るわ」
「何がどこに入っているか、お嬢様は把握できていらっしゃらないではありませんか」
「では、必要なものを寝室に出しておいてもらえる?」
己の主人は、何が何でも自分を早く上がらせようとする気だ。これ以上粘っても状況は変わらないだろう、とミュレアは早々に諦めた。
「分かりました。お言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
溜息交じりに仕方なく、といった感じに了承したミュレアの態度にフィリネグレイアは引っかかりを覚えた。だが、自分が強引に押しと通した事を自覚している。
これで彼と2人きりで過ごす時間を作れれば良いのだが。
こっそりミュレアの仕事が早く終わると連絡を入れておこうか。
話が終わった途端、考え事を始めたフィリネグレイアを見て、ミュレアはやっぱり何か企んでいるのではと彼女に問いただすような視線を向ける。
それに気付いたフィリネグレイアは誤魔化す様に笑いながら言う。
「いつもミュレアは頑張ってくれているもの。それじゃあ、陛下への返事、宜しくお願いします」
ミュレアが礼を取り、下がって行った。
それを見送り、フィリネグレイアは長椅子に身を沈める。
これから数時間後に再び国王と対面しなければならないかと思うと、億劫だ。
数時間後、指定された時間にフィリネグレイアは後宮に向かった。
後宮へは迎えの車に乗って来たのだが、王宮から後宮まで、歩いて精々15分から20分程で着く。何故車で移動しなければならないのか、フィリネグレイアには全く理解出来なかった。
まあ、楽といえば楽なのだが。
車の窓を見ると月が美しく輝いており、それをフィリネグレイアは見つめる。
美しく、それでいて見ているとずっしりと身体の内側に重いものが沈んでいくが、それは決して苦痛ではない不思議な感覚。
先程まで感じていた体のだるさが取り払われて行くようだ。
大きく息を吐いて、フィリネグレイアは目を閉じた。
後宮に到着するまで彼女は目を閉じ、その身を車の座席に沈めてこれから待ち構えているだろう戦いに備えた。
目的地に着くと、先に運転手が車を降り、扉を開けてフィリネグレイアが降りる手助けをする。
運転手に礼を言い、差し出された手に己の手を乗せ、車から降りる。
「お待ちしておりました。オイネット公爵令嬢様、お久しぶりでございます」
フィリネグレイアを出迎えたのは、後宮を取り締まっている青年、カベルだ。
「お久しぶり、カベル。元気にしていた」
「はい、おかげ様で。フィリネグレイア様もお元気そうでなによりでございます。さあ、中へどうぞ」
カベルが扉を開ける。
扉の向こうから、明るい光がフィリネグレイアに降り注ぐ。
彼女はその中に足を踏み入れた。
案内された部屋の中に入ると、国王が既にいた。
「陛下、本日はお招き下さりありがとうございます」
夕食の招待の礼を言う。
「こちらこそ、突然の申し出にも拘らず、お越し頂いきありがとうございます。どうぞ、座って下さい」
カベルが椅子を引き、フィリネグレイアがそこに座る。
2人が席に座ると、彼らの前に食事が運ばれた。
「昼間は途中で仕事が入ってしまい申し訳ありませんでした。」
「お仕事ですもの、仕方ありませんわ」
むしろ友人と一緒に庭園を散策して楽しめたのでお礼を言いたいぐらいです、と心の中で呟く。
「大臣たちも、久しぶりに婚約者と会うのだから気を利かせてくれても良いのに。厳しい人達ばかりですよ」
2人は食事を取りながら話をする。
「それほど陛下が頼りにされているということではありませんか」
「25の若造に頼らなければならない程、無能ではありませんよ、我が国の役人たちは」
「彼らが十分力を発揮できるのも、陛下の統率力があってこそですわ」
「貴女にそう言ってもらえるのは嬉しいです。その点では大臣たちに感謝しないと」
「まあ」
国王の言葉に、フィリネグレイアは小さく笑う。久しぶりに会う婚約者と一緒にいたいわけでも、自分から褒めの言葉を貰って嬉しいわけでもないだろうに、と。
とんだ茶番だ。
「王宮の庭園は本当に素晴らしいですね。大変楽しませていただきました」
「それは良かった」
「庭園を見ていて、後宮にある温室の事を思い出しました。ルフィエアナ様が嫁がれた後、一度も行っていないので、どのようになっているのかと」
国王の妹であるルフィエアナの遊び相手として、フィリネグレイアは幾度も後宮を訪れている。王女とはよく温室で花々を見ながら話し合った。
その王女が2年前、遠縁にあたる侯爵家に嫁いで以降、彼女は後宮を訪れても温室に足を踏み入れていない。避けていたわけではないのだが、気づいたら長い間あそこには行っていない。
「折角ですし、食事の後に温室に行ってみますか?」
国王の提案は魅力的だが、一刻も早く王宮に帰りたいという気持ちも少なからずある。
フィリネグレイアは迷いを断ち切った。
それに、国王に聞きたい事もある。
彼女は国王の提案を承諾した。
「よろしいのでしたら、是非行きたいです」
「では、食事が済んだら温室に行きましょうか。実は私も最近あそこには行っていないんですよ」
苦笑しながら国王が言う。
おいおい、自分の家だろうに、とフィリネグレイアは呆れた。
大方後宮の全てをカベルに任せっきりなのだろう。
「どのようになっているのか、楽しみですね」
思わず良い笑顔で言ってしまった。
「ええ、本当に」
フィリネグレイアの笑みがどういった意味合いのモノか、正確に把握しただろう国王もまた、それは良い笑みを浮かべる。
フィリネグレイア自身が今の光景を第三者として見ていたら、両方とも嫌な笑みを顔に張り付けているな、と思ったことだろう。
わずかな明かりが温室内を照らしており、それは幻想的な雰囲気を醸し出す。
「美しいですね」
久しぶりに訪れた温室はその姿を変えており、記憶に在るものとは若干事なっていた。
フィリネグレイアは温室内をゆっくりと植物を観賞しながら歩く。
目の前の景色を楽しむフィリネグレイアとは反対に、国王はこの景色に全く興味が無い様だ。彼は静かにフィリネグレイアを見ていた。その視線に気付いたフィリネグレイアが国王の方を見る。
「何でしょうか」
「嬉しそうだなと思いまして」
「それは、ここに来れて嬉しいですし。・・・カベルは良い仕事をしていますね」
上王と王太后が後宮から離宮へ住まいを移した後に後宮を管理しているのはカベルだ。だから、この温室もカベルが管理しているのだろうとフィリネグレイアは思った。
だが、国王は彼女の言葉を否定した。
「いえ、ここは今でも父上が管理しています」
「上王陛下が、ですか?」
「はい。日々の世話は他の者に指示して任せていますが、時折こちらに来て本人が手入れしています・・・貴女の趣味はあの人の影響でしたね」
「ええ、まあ。きっかけは上王陛下ですね」
上王がこの温室の植物の手入れをしているのだとルフィエアナから聞き、フィリネグレイアは興味を持った。
まあ、その後色々あって彼女は園芸にどっぷりとはまったわけなのだが。
「父上は貴女にこの温室を譲り渡すと仰っていました。もちろん、貴女が良ければの話ですが」
「もちろん、喜んでお受けいたします」
断るなどとんでもない。フィリネグレイアははっきりと答えた。
「貴女ならそう言うと思っていた」
国王が小さく言う。
「そのように貴女から父上に返答を返していただけますか?俺よりも直接貴女から返事をした方が良いでしょう」
「はい、そうします」
この、上王が愛情込めて造り上げた温室を自分が引き継ぐのか。そう思うだけで、フィリネグレイアは期待に胸を膨らませた。
「ところで陛下、1つお聞きしたい事があるのですが」
「どうぞ」
国王はフィリネグレイアの問いを促す。
「どうして王宮の方に一ヵ月間滞在しなくてはならないのでしょうか」
「不満ですか?」
フィリネグレイアの言葉に、国王は面白そうに笑いながら聞く。
その態度に、フィリネグレイアは眉間に寄せた。
「ええ、それはもう。わたくしの侍女や女官の方々の仕事が増えますもの。ただでさえ婚儀が近づいてやる事が多いというのに」
「後宮よりも王宮の方が情報を集めるのに効率が良い」
国王の発言にフィリネグレイアは首を傾げた。
情報を集める、とはどういう事だろうか。
「自分で答えを見つけて下さい。親切に教えるなどという甘い事、貴女には不要でしょう?」
彼女の表情や雰囲気から、己の真意が伝わっていないと思ったのだろう。国王は突き放す様な事を言う。
「貴方が人に甘い事などありえないでしょう」
「さあ。ラオには甘いと怒られます」
「ラオ兄様が陛下をそのような事を?」
フィリネグレイアは国王の言葉が信じられなかった。
「はい。ロイにはやり方が汚いと怒られましたが」
ラオフェントには甘いと言われ、ロベルトには汚いと罵られるような事とは、一体。
この人は何をやらかしたのか、とフィリネグレイアは呆れた。
「当分の間、私が自由に動ける時間はないでしょうから、貴女に何かあっても助けられるか分かりません。面倒事は避けて下さいね」
まるで自分が面倒事を起こす存在の様に言われたフィリネグレイアは、少し不機嫌になる。
「面倒事とは、どういう意味ですか」
国王がはっきりと答える事は無いと分かっていて、フィリネグレイアは問う。
「そんな事ぐらい自分で考えなさい」
案の定、素気なく返って来た言葉にフィリネグレイアは肩をすくめた。
「お忙しいようですけれど、来週予定していた上王、王太后両陛下への面会はどうなされますか?」
「あの人たちには申し訳ないが、あちらに出向いている時間も惜しい状況ですから」
国王の言葉にフィリネグレイアは頷いた。
「分かりました。ではわたくし1人でご挨拶に行ってまいります」
国王が行けないのなら、尚更自分が行かなければ。
それに誰かさんに煩わされることなく両陛下に会える、と内心喜んだ。
「そのように手配しておきます」
国王は一瞬、苦い顔をしたが、直ぐに表情を笑みに張り替えてフィリネグレイアの提案に了承を告げる。
彼が一瞬浮かべた表情に、フィリネグレイアは引っかかりを覚えた。もしかしたら、国王の両親に取り入り、彼の恋人を追い出そうと考えている、などと思われたのかもしれない。
結局は何も言われなかったが、そのような事をしないと少しは信用されているという事だろうか。まあ、そのような事をする人物だと完全に疑われるようだったら、初めから自分が王妃に選ばれる事などありはしない。と、フィリネグレイアは自分の中で結論を出し、これ以上考えることを止めた。
香りが良くほろ苦いこのお茶を、フィリネグレイアは好んで良く飲む。
そう言えば王妹のルフィエアナといつも飲んでいた花の香りがするお茶を長い間飲んでいない。
何となく、その事を思い出す。
今度久しぶりに取り寄せて飲んでみようか。
「フィリネグレイア様、少しよろしいでしょうか」
別室で片づけをしていたはずのミュレアがいつの間にかフィリネグレイアの横に立っていた。
人の気配に敏感というわけでもないのだが、声をかけられるまでミュレアが直ぐ近くにいる事に全く気付かなかった。いきなり自分のすぐ近くに人の存在を認識するというのは何とも心臓に悪い。
フィリネグレイアは思わず、身を震わせた。
「どうしたの?」
取り繕い何もなかったかのように振る舞う。
「国王陛下から夕食を招待されていますが、いかがなさいますか?」
ミュレアの告げた事に、フィリネグレイアは眉間に皺を寄せた。
「どうするもなにも、断ることなど出来ないわ。分かりましたと返事をしてちょうだい」
「かしこまりました」
「あ、ちょっと待って」
了承を伝えに行くために下がろうとしたミュレアを、フィリネグレイアは呼び止めた。
「如何しましたか」
「荷物の片づけは予定より早く終わりそうなのよね?」
「はい、1,2時間もあれば終わると思います」
「そう。なら、今日の勤めは女官の方々と一緒に上がってしまって」
「いきなり、何故そのような事を?」
突然の提案に、ミュレアは仕事が早く終わる喜びよりも、主人が何か企んでいるのではと不安になった。
「何か仕出かそうと思っているわけじゃないから、大丈夫よ。ミュレアも久しぶりに王都に来たでしょう?まあ、いつもお世話になっているお礼だと思って」
良い事を思いついたと言わんばかりに、フィリネグレイアの表情は明るい。
だが、ミュレアはその提案に渋る。
「ですが、お嬢様の就寝のお手伝いがありますし」
「あら、それぐらい1人で出来るわ」
「何がどこに入っているか、お嬢様は把握できていらっしゃらないではありませんか」
「では、必要なものを寝室に出しておいてもらえる?」
己の主人は、何が何でも自分を早く上がらせようとする気だ。これ以上粘っても状況は変わらないだろう、とミュレアは早々に諦めた。
「分かりました。お言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
溜息交じりに仕方なく、といった感じに了承したミュレアの態度にフィリネグレイアは引っかかりを覚えた。だが、自分が強引に押しと通した事を自覚している。
これで彼と2人きりで過ごす時間を作れれば良いのだが。
こっそりミュレアの仕事が早く終わると連絡を入れておこうか。
話が終わった途端、考え事を始めたフィリネグレイアを見て、ミュレアはやっぱり何か企んでいるのではと彼女に問いただすような視線を向ける。
それに気付いたフィリネグレイアは誤魔化す様に笑いながら言う。
「いつもミュレアは頑張ってくれているもの。それじゃあ、陛下への返事、宜しくお願いします」
ミュレアが礼を取り、下がって行った。
それを見送り、フィリネグレイアは長椅子に身を沈める。
これから数時間後に再び国王と対面しなければならないかと思うと、億劫だ。
数時間後、指定された時間にフィリネグレイアは後宮に向かった。
後宮へは迎えの車に乗って来たのだが、王宮から後宮まで、歩いて精々15分から20分程で着く。何故車で移動しなければならないのか、フィリネグレイアには全く理解出来なかった。
まあ、楽といえば楽なのだが。
車の窓を見ると月が美しく輝いており、それをフィリネグレイアは見つめる。
美しく、それでいて見ているとずっしりと身体の内側に重いものが沈んでいくが、それは決して苦痛ではない不思議な感覚。
先程まで感じていた体のだるさが取り払われて行くようだ。
大きく息を吐いて、フィリネグレイアは目を閉じた。
後宮に到着するまで彼女は目を閉じ、その身を車の座席に沈めてこれから待ち構えているだろう戦いに備えた。
目的地に着くと、先に運転手が車を降り、扉を開けてフィリネグレイアが降りる手助けをする。
運転手に礼を言い、差し出された手に己の手を乗せ、車から降りる。
「お待ちしておりました。オイネット公爵令嬢様、お久しぶりでございます」
フィリネグレイアを出迎えたのは、後宮を取り締まっている青年、カベルだ。
「お久しぶり、カベル。元気にしていた」
「はい、おかげ様で。フィリネグレイア様もお元気そうでなによりでございます。さあ、中へどうぞ」
カベルが扉を開ける。
扉の向こうから、明るい光がフィリネグレイアに降り注ぐ。
彼女はその中に足を踏み入れた。
案内された部屋の中に入ると、国王が既にいた。
「陛下、本日はお招き下さりありがとうございます」
夕食の招待の礼を言う。
「こちらこそ、突然の申し出にも拘らず、お越し頂いきありがとうございます。どうぞ、座って下さい」
カベルが椅子を引き、フィリネグレイアがそこに座る。
2人が席に座ると、彼らの前に食事が運ばれた。
「昼間は途中で仕事が入ってしまい申し訳ありませんでした。」
「お仕事ですもの、仕方ありませんわ」
むしろ友人と一緒に庭園を散策して楽しめたのでお礼を言いたいぐらいです、と心の中で呟く。
「大臣たちも、久しぶりに婚約者と会うのだから気を利かせてくれても良いのに。厳しい人達ばかりですよ」
2人は食事を取りながら話をする。
「それほど陛下が頼りにされているということではありませんか」
「25の若造に頼らなければならない程、無能ではありませんよ、我が国の役人たちは」
「彼らが十分力を発揮できるのも、陛下の統率力があってこそですわ」
「貴女にそう言ってもらえるのは嬉しいです。その点では大臣たちに感謝しないと」
「まあ」
国王の言葉に、フィリネグレイアは小さく笑う。久しぶりに会う婚約者と一緒にいたいわけでも、自分から褒めの言葉を貰って嬉しいわけでもないだろうに、と。
とんだ茶番だ。
「王宮の庭園は本当に素晴らしいですね。大変楽しませていただきました」
「それは良かった」
「庭園を見ていて、後宮にある温室の事を思い出しました。ルフィエアナ様が嫁がれた後、一度も行っていないので、どのようになっているのかと」
国王の妹であるルフィエアナの遊び相手として、フィリネグレイアは幾度も後宮を訪れている。王女とはよく温室で花々を見ながら話し合った。
その王女が2年前、遠縁にあたる侯爵家に嫁いで以降、彼女は後宮を訪れても温室に足を踏み入れていない。避けていたわけではないのだが、気づいたら長い間あそこには行っていない。
「折角ですし、食事の後に温室に行ってみますか?」
国王の提案は魅力的だが、一刻も早く王宮に帰りたいという気持ちも少なからずある。
フィリネグレイアは迷いを断ち切った。
それに、国王に聞きたい事もある。
彼女は国王の提案を承諾した。
「よろしいのでしたら、是非行きたいです」
「では、食事が済んだら温室に行きましょうか。実は私も最近あそこには行っていないんですよ」
苦笑しながら国王が言う。
おいおい、自分の家だろうに、とフィリネグレイアは呆れた。
大方後宮の全てをカベルに任せっきりなのだろう。
「どのようになっているのか、楽しみですね」
思わず良い笑顔で言ってしまった。
「ええ、本当に」
フィリネグレイアの笑みがどういった意味合いのモノか、正確に把握しただろう国王もまた、それは良い笑みを浮かべる。
フィリネグレイア自身が今の光景を第三者として見ていたら、両方とも嫌な笑みを顔に張り付けているな、と思ったことだろう。
わずかな明かりが温室内を照らしており、それは幻想的な雰囲気を醸し出す。
「美しいですね」
久しぶりに訪れた温室はその姿を変えており、記憶に在るものとは若干事なっていた。
フィリネグレイアは温室内をゆっくりと植物を観賞しながら歩く。
目の前の景色を楽しむフィリネグレイアとは反対に、国王はこの景色に全く興味が無い様だ。彼は静かにフィリネグレイアを見ていた。その視線に気付いたフィリネグレイアが国王の方を見る。
「何でしょうか」
「嬉しそうだなと思いまして」
「それは、ここに来れて嬉しいですし。・・・カベルは良い仕事をしていますね」
上王と王太后が後宮から離宮へ住まいを移した後に後宮を管理しているのはカベルだ。だから、この温室もカベルが管理しているのだろうとフィリネグレイアは思った。
だが、国王は彼女の言葉を否定した。
「いえ、ここは今でも父上が管理しています」
「上王陛下が、ですか?」
「はい。日々の世話は他の者に指示して任せていますが、時折こちらに来て本人が手入れしています・・・貴女の趣味はあの人の影響でしたね」
「ええ、まあ。きっかけは上王陛下ですね」
上王がこの温室の植物の手入れをしているのだとルフィエアナから聞き、フィリネグレイアは興味を持った。
まあ、その後色々あって彼女は園芸にどっぷりとはまったわけなのだが。
「父上は貴女にこの温室を譲り渡すと仰っていました。もちろん、貴女が良ければの話ですが」
「もちろん、喜んでお受けいたします」
断るなどとんでもない。フィリネグレイアははっきりと答えた。
「貴女ならそう言うと思っていた」
国王が小さく言う。
「そのように貴女から父上に返答を返していただけますか?俺よりも直接貴女から返事をした方が良いでしょう」
「はい、そうします」
この、上王が愛情込めて造り上げた温室を自分が引き継ぐのか。そう思うだけで、フィリネグレイアは期待に胸を膨らませた。
「ところで陛下、1つお聞きしたい事があるのですが」
「どうぞ」
国王はフィリネグレイアの問いを促す。
「どうして王宮の方に一ヵ月間滞在しなくてはならないのでしょうか」
「不満ですか?」
フィリネグレイアの言葉に、国王は面白そうに笑いながら聞く。
その態度に、フィリネグレイアは眉間に寄せた。
「ええ、それはもう。わたくしの侍女や女官の方々の仕事が増えますもの。ただでさえ婚儀が近づいてやる事が多いというのに」
「後宮よりも王宮の方が情報を集めるのに効率が良い」
国王の発言にフィリネグレイアは首を傾げた。
情報を集める、とはどういう事だろうか。
「自分で答えを見つけて下さい。親切に教えるなどという甘い事、貴女には不要でしょう?」
彼女の表情や雰囲気から、己の真意が伝わっていないと思ったのだろう。国王は突き放す様な事を言う。
「貴方が人に甘い事などありえないでしょう」
「さあ。ラオには甘いと怒られます」
「ラオ兄様が陛下をそのような事を?」
フィリネグレイアは国王の言葉が信じられなかった。
「はい。ロイにはやり方が汚いと怒られましたが」
ラオフェントには甘いと言われ、ロベルトには汚いと罵られるような事とは、一体。
この人は何をやらかしたのか、とフィリネグレイアは呆れた。
「当分の間、私が自由に動ける時間はないでしょうから、貴女に何かあっても助けられるか分かりません。面倒事は避けて下さいね」
まるで自分が面倒事を起こす存在の様に言われたフィリネグレイアは、少し不機嫌になる。
「面倒事とは、どういう意味ですか」
国王がはっきりと答える事は無いと分かっていて、フィリネグレイアは問う。
「そんな事ぐらい自分で考えなさい」
案の定、素気なく返って来た言葉にフィリネグレイアは肩をすくめた。
「お忙しいようですけれど、来週予定していた上王、王太后両陛下への面会はどうなされますか?」
「あの人たちには申し訳ないが、あちらに出向いている時間も惜しい状況ですから」
国王の言葉にフィリネグレイアは頷いた。
「分かりました。ではわたくし1人でご挨拶に行ってまいります」
国王が行けないのなら、尚更自分が行かなければ。
それに誰かさんに煩わされることなく両陛下に会える、と内心喜んだ。
「そのように手配しておきます」
国王は一瞬、苦い顔をしたが、直ぐに表情を笑みに張り替えてフィリネグレイアの提案に了承を告げる。
彼が一瞬浮かべた表情に、フィリネグレイアは引っかかりを覚えた。もしかしたら、国王の両親に取り入り、彼の恋人を追い出そうと考えている、などと思われたのかもしれない。
結局は何も言われなかったが、そのような事をしないと少しは信用されているという事だろうか。まあ、そのような事をする人物だと完全に疑われるようだったら、初めから自分が王妃に選ばれる事などありはしない。と、フィリネグレイアは自分の中で結論を出し、これ以上考えることを止めた。