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 日が落ちて数時間が経った頃、茜の携帯電話が鳴った。
 慌ててテーブルの上に置いていた携帯電話を取り、画面を見る。そこには蘇芳の名前が表示されていた。
 心臓が一回だけ、大きな音を立てた。
 詰まりそうになる息を整えるために深呼吸をしてから、携帯電話の通話ボタンを押した。
「もしもし」
 携帯電話を耳に当て、向こうから聞こえてくる音に集中する。直ぐに、もう聞きなれた彼の声がした。
「もしもし、茜ちゃん?今、電話大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「いきなりで申し訳ないんだけど、明日、行けなくなってしまったんだ。ごめん。」
 何を言われたのか、咄嗟には理解出来なかった。数秒かけて、彼が言った内容が沁みていく。
 体から力が抜けていくのを自覚して、携帯電話を落してしまわないようにしっかりと握り締める。
「気に、しないで下さい」
 精一杯平気なフリをして、悲しみを声に乗せない様に答える。
 それでも、ほんの少しだけ声が震えてしまった。機械を通しているのだから、きっとこの震えは向こう側に伝わっていないだろうと自分を慰める。
「明日は無理だけど、また今度、一緒に行こう」
 茜が言葉を返そうとした時、呼ばれたのだろう蘇芳が誰かに直ぐに行くと返事をしたため、茜は口を噤んだ。
 耳を澄ませてみると、向こう側は何やら少し騒がしい。仕事で何かトラブルがあったのかもしれない。
「はい、楽しみにしています。お休みなさい、蘇芳さん」
「うん。お休み、茜ちゃん」
 通話が切れた事を確かめてから、茜は終了ボタンを押した。
 深く息を吐く。
 しばらくの間、じっと携帯電話の待ち受け画面を見つめた後、携帯電話をテーブルの上に置く。よっこいせと小さな掛け声とともに立ち上がりベッドの上に置いてある数着の服を見下ろす。
 蘇芳からの電話が来るまで、明日は何を着ていこうか、と選んでいた。約束が無くなってしまった今はこの服たちは用済みである。早々に片付けてしまう。
 そうしている内に、段々と明日の予定が無くなってしまったのだという実感が湧いてきた。
 まだ午後9時になったばかりだが、既に寝る準備は終わっていたので茜は早々に寝てしまうことにした。起きていたら、うだうだと嫌な事を考えてしまいそうだった。
 音楽プレイヤーに繋いだイヤホンを耳に付け、部屋の明かりを消す。
 布団の中に入り込み、お気に入りのプレイリストを選択して音楽を再生する。今日は夜の静寂の中で寝る気になれなかった。
 目を閉じて、音楽に耳を傾ける。
 早く、何も感じない眠りの中に落ちてしまいたかった。

 目が覚めると、既に日は昇り、室内が仄かに明るい。目は覚めたが、まだ頭がぼんやりとして正常に思考が働かない。
 はっきりと覚醒するまでベッドに横たわり、薄暗い室内を見る。
 今日一日の予定を頭の中で確認して、茜は小さくため息をついた。
 思い出した昨夜の事で気を沈めていても仕方がない。
 今日の午前には蘇芳と出掛けるのとは別の予定が入っている。
 ベッドサイドに置いてある時計で時間を確認すると、6時になったばかりだった。先ずは顔を洗って着替えよう。それから朝食を準備して出かける準備を始めれば、家を出るのに丁度良い時間になるだろう。
 茜はベッドから抜け出した。
 昨日見た天気予報では、今日一日雨模様。カーテンを開けて外を確認すると、道路に出来た水溜りにぽつぽつと波紋が広がっているのが見えた。今はあまり降っていないようで、水溜りなどを見なければ雨が降っている事を確認しにくい。
 窓から離れ、身支度をするために茜は着替えを持って洗面所に向かった。

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