店内に戻ると、マスターが電話の子機で話をしている最中だった。
「うん、待っているよ。気を付けて」
マスターはそう言うと電話を切った。
「誰か来るんですか?」
席に戻りながら、茜は尋ねる。マスターは軽く頷いた。誰が来るのかと茜が問う前に、マスターは茜が座っていた席の前にマグカップを置いた。
「はい、ご注文のホットミルクです」
「ありがとうございます」
茜が席に着くとカップを両手で持ち、湯気の立つホットミルクを一口飲んだ。
「雨、止まないね」
マスターが窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
茜はカップの中の白いミルクを見つめながら言う。
「そろそろ止んでもらいたいですけど。こうも暴力的だと不安になります」
「そうだね。・・・これから来るって言っていたけれど、大丈夫かな」
「さっきの電話の相手ですか?」
「うん」
今この空間に親しい人しかいないという状況が茜には心地良かったというのに、他人がここに入って来ると分かり、彼女は少し不満を覚えた。
「誰が来るんですか?」
せめて自分が知っている人なら良いのに、と思いつつ、カップの中を見つめながらマスターに尋ねる。顔見知り程度でも、少しは居心地の悪さが和らぐだろうか。
「ん?蘇芳君だよ」
マスターの一言で、茜の中の不満が一瞬で消えた。
驚きで直ぐに顔を上げ、マスターを見る。だが、笑顔のマスターを見て、ドキリと一度、心臓が大きく脈打った。まるで自分の中に生じた喜びと戸惑いを彼に見抜かれたように感じた。
強張った茜の表情を見て、マスターは胸の内でこれは蘇芳がらみで何かあったなと確信した。
マスターは彼女に何も聞かない。彼女の変化に気づいていないふりをする。
茜に向ける笑みを深いものに変えてから、マスターは準備を始める。これからこの雨で身体を冷やしてくるだろう、蘇芳を温める、熱いコーヒーを用意するため。
蘇芳が来ると分かってから、茜は気持ちが落ち着かないでいた。
マスターから視線を外し、再びカップの中に残っているミルクを飲みもせずにじっと見つめる。温かかったミルクが外気との温度差で、段々と冷えていく。早く飲まないと冷え切ってしまい、美味しさが半減してしまうなと思いながらも、カップを口へ運ぶ気になれない。
小さく息を吐いてから、茜はカップを握る手の力を少し強めた。カップに口を付け、残りを一気に流し込む。ミルクと一緒に胸の中につかえていたモノが流れていってしまえたような気がした。
本音を言うならば、早々にこの場から立ち去ってしまいたい。だが、今ここから逃げ出してはいけないと茜は強く自分の言い聞かせる。
「御代わり、いる?」
マスターが茜に声をかける。
準備がひと段落ついたのだろう。いつの間にかマスターが茜の前に立っていた。
中身がなくなったカップの底を見つめていた茜は、顔を上げた。
「いえ、結構です。御馳走様でした」
茜は空っぽのカップをマスターへ差し出す。彼女の返答に、マスターはそうとだけ言い、カップを受け取る。
「他に何かして欲しい事は、ある?」
その言葉に、茜の目線が揺れた。言おうか、言わないでいるか。ほんの少しの葛藤の後、茜は決心した。
本当にこの人は、人の気持ちを察するのが上手い。欲しい時に手を差し伸べてくれる。
いつもなら甘えてはいけないと拒否するところだが、今回はこの人の優しさを素直に受け入れてしまおう。
「話を、聞いてもらえますか」
小さな、しかし消えてしまわないほどの大きさで茜は呟いた。それをマスターはきちんと拾い上げる。
「私で良ければ、いくらでも」
予想通りの返答に茜は苦笑を浮かべた。
「今日、出かける約束をしていたんです。蘇芳さんと」
窓の外、雨はまだ降り続き、その勢いが弱まる気配はない。
一週間ほど前、茜は蘇芳と植物園で開催される紫陽花の特別展を見に行く約束をしていた。
その約束の、一緒に出掛ける日の、前日の事だった。
「うん、待っているよ。気を付けて」
マスターはそう言うと電話を切った。
「誰か来るんですか?」
席に戻りながら、茜は尋ねる。マスターは軽く頷いた。誰が来るのかと茜が問う前に、マスターは茜が座っていた席の前にマグカップを置いた。
「はい、ご注文のホットミルクです」
「ありがとうございます」
茜が席に着くとカップを両手で持ち、湯気の立つホットミルクを一口飲んだ。
「雨、止まないね」
マスターが窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
茜はカップの中の白いミルクを見つめながら言う。
「そろそろ止んでもらいたいですけど。こうも暴力的だと不安になります」
「そうだね。・・・これから来るって言っていたけれど、大丈夫かな」
「さっきの電話の相手ですか?」
「うん」
今この空間に親しい人しかいないという状況が茜には心地良かったというのに、他人がここに入って来ると分かり、彼女は少し不満を覚えた。
「誰が来るんですか?」
せめて自分が知っている人なら良いのに、と思いつつ、カップの中を見つめながらマスターに尋ねる。顔見知り程度でも、少しは居心地の悪さが和らぐだろうか。
「ん?蘇芳君だよ」
マスターの一言で、茜の中の不満が一瞬で消えた。
驚きで直ぐに顔を上げ、マスターを見る。だが、笑顔のマスターを見て、ドキリと一度、心臓が大きく脈打った。まるで自分の中に生じた喜びと戸惑いを彼に見抜かれたように感じた。
強張った茜の表情を見て、マスターは胸の内でこれは蘇芳がらみで何かあったなと確信した。
マスターは彼女に何も聞かない。彼女の変化に気づいていないふりをする。
茜に向ける笑みを深いものに変えてから、マスターは準備を始める。これからこの雨で身体を冷やしてくるだろう、蘇芳を温める、熱いコーヒーを用意するため。
蘇芳が来ると分かってから、茜は気持ちが落ち着かないでいた。
マスターから視線を外し、再びカップの中に残っているミルクを飲みもせずにじっと見つめる。温かかったミルクが外気との温度差で、段々と冷えていく。早く飲まないと冷え切ってしまい、美味しさが半減してしまうなと思いながらも、カップを口へ運ぶ気になれない。
小さく息を吐いてから、茜はカップを握る手の力を少し強めた。カップに口を付け、残りを一気に流し込む。ミルクと一緒に胸の中につかえていたモノが流れていってしまえたような気がした。
本音を言うならば、早々にこの場から立ち去ってしまいたい。だが、今ここから逃げ出してはいけないと茜は強く自分の言い聞かせる。
「御代わり、いる?」
マスターが茜に声をかける。
準備がひと段落ついたのだろう。いつの間にかマスターが茜の前に立っていた。
中身がなくなったカップの底を見つめていた茜は、顔を上げた。
「いえ、結構です。御馳走様でした」
茜は空っぽのカップをマスターへ差し出す。彼女の返答に、マスターはそうとだけ言い、カップを受け取る。
「他に何かして欲しい事は、ある?」
その言葉に、茜の目線が揺れた。言おうか、言わないでいるか。ほんの少しの葛藤の後、茜は決心した。
本当にこの人は、人の気持ちを察するのが上手い。欲しい時に手を差し伸べてくれる。
いつもなら甘えてはいけないと拒否するところだが、今回はこの人の優しさを素直に受け入れてしまおう。
「話を、聞いてもらえますか」
小さな、しかし消えてしまわないほどの大きさで茜は呟いた。それをマスターはきちんと拾い上げる。
「私で良ければ、いくらでも」
予想通りの返答に茜は苦笑を浮かべた。
「今日、出かける約束をしていたんです。蘇芳さんと」
窓の外、雨はまだ降り続き、その勢いが弱まる気配はない。
一週間ほど前、茜は蘇芳と植物園で開催される紫陽花の特別展を見に行く約束をしていた。
その約束の、一緒に出掛ける日の、前日の事だった。