第8話 生まれた思い

 私と村上くんはそれぞ親に連絡を入れ、遅くなるからと緋華里さんの家で夕飯を御馳走になった。その頃には外に出ていた緋華里さんの旦那さんも帰ってきており、外が真っ暗になった頃、4人で車に乗って蛍の見れる公園へ移動した。てっきり全員で蛍を見に行くのだと思っていたのだが、車から出た後、緋華里さんに二人で先に蛍を見に行ってきなさいと言われた。
 村上くんの方を見ると彼は頷いて歩き出す。
 私も慌てて足を進めるが、本当に良いのだろうかと振りかえって緋華里さんを見る。
 彼女は優しく微笑んで手を振っていた。

「道、こっちで良いの?」
「うん。この道を行くと直ぐ。ほらあそこが、少し明るいでしょう?」
 車を止めた駐車場から舗装されていない小道に入る。
 その道の先にぼんやりと明るい場所がある。
「あれが」
 ぽつりと零れたその言葉。
 私は村上くんの横に立ち、彼を見る。
「行こう」
 小さく、彼に届くか届かないかの音量で私は言う。
 彼は何も言わず、私の方へ視線を向ける事もなく、目的の場所へ向かって一歩ずつ歩を進める。私は無言で彼の数歩後について行った。
 あっという間に私たちは黄緑色の淡い光で満たされた空間に入り込んだ。
 彼は息を飲み、この場の風景を記憶に焼きつけるかのようにじっと見ている。
 私も静かに蛍の舞う様子を見る。
 数え切れないほどの蛍が、光りながら草木の間をゆったりと飛んでいる。私が初めて両親に連れられてここへ来た時は、彼と同じように食い入るように見ていた。
「こんなにたくさん、いるとは思わなかった」
「綺麗でしょう?」
 私の問いに、彼は頷いた。
 どのくらいの間二人で蛍の光を見ていたか分からない。
 やがて、再び彼の方から話し始めた。
「柴田さんと一緒に蛍を見に来れて、良かった」
 彼の言葉に私は頷いた。
「私も、来れて良かった」
 私が彼の方を見て言うと、彼は蛍が舞う風景から視線を外し、私を見る。
 彼は私を見て微笑んだ。それは優しくて、何故か大人びて見えた。
 そして、私は彼を見てあの人を思い出した。
 私の愛する人。
 私ではない人を愛する人。
 どうして彼を思い出すのだろう。
「柴田さん、どうしたの?体調が悪くなった?」
 あの人の事を思い出して泣きそうになった私を見て、彼は具合が悪くなったのだかと心配になったのだろう。少し焦った声音で私に優しく尋ねる。
 彼が私を心配してくれたことをありがたく思いながら、そうではないと苦笑した。
 彼から視線を外し、私は蛍を見つめる。
 蛍はゆっくりと光を放ちながら空を飛びまわっている。
「小学生のころ、大好きな人がここに連れて来てくれたとこの事、思い出して」
 丁度、今の私たちと同い年だったあの人。
 あの頃のあの人と同い年の村上くんが、同じ状況で、同じ表情を浮かべたから、私はあの人の事を思い出した。
「懐かしくて」
 私は二度とあの人と共にここへ、この光景を見に来ることはないだろう。
 この光景を二人で見るのは、きっと彼とだけ。
 そんな確信があった。
「そう」
 短い相槌だけだと言うのに、どうして彼の言葉はこんなに優しいのだろう。
 私の心に暖かい思いが溢れて行く。
「だから、村上くんと一緒に蛍を見に来れて、とても嬉しい」
 溢れだした思いが外へ出て行く。
 届いた思いを、彼は硬い表情を柔らかくし、満面の笑みを浮かべて受けとめてくれた。
「俺も、同じ気持ち。・・・ありがとう」
 彼の言葉と表情を受けて、私の中に1つの気持ちが生まれた。
 そして、それは、ほんのりと暖かい。
 ああ、私は彼が好きだ。
 彼を見て、私はそう思った。
理由なんて分からない。でも、彼という存在が私の中で特別になってしまった。




 あの日、蛍を2人で見た日。
 私の中で生まれ、育っていた気持ちを確かなものにした日。
 あれからどれだけの月日が流れただろう。
 もうずいぶんと遠いところへ来た。
「あやめ?」
 優しく私を呼ぶ声。
 それが発せられたであろう方向を見れば、あの人がこちらへやって来る姿があった。
「どうされたのですか?このような時間に」
 この場にいるはずがないのに、何故この人はいるのだろう。
 私の問いに目の前の人は困った様に笑った。
 それが答えか。もう、私の問いにはっきりと答えてくれない事には慣れた。
 だけど、どうしてそんな風に笑うのだろう。
 今度は問うことなく、私の中で消えていく。
「体調はどうだ?」
「問題ありません」
 ゆったりと優しく頭を撫でてくれる感触に胸が苦しくなるようになったのは、いつからだっただろうか。
「そうか」
 悲しいことなんて1つもないのに。辛いことなど1つもないのに。
 この人が私に優しくしてくれる時間が、私には痛い。
 あの日の事を思い出していたせいだろうか。
 彼に会いたいと思った。
 会って、話したい。
 でも、それは出来ない。
 それは目の前の人を裏切ることと同意だから。

 そんなこと、私に出来るはずがない。
だから私は彼と会うことはない。私がこの人を愛している限り。



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