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 美術館へ行く日時や待ち合わせ場所を決め、一応連絡を取れるように携帯電話の番号を交換した。
 好意を寄せている男性の連絡先が、自分の携帯電話に入っているというのは非常に気持ちが高揚するもので、未だに胸の内に不安は残っているが、茜の心は浮き立った。
 彼女はそれを必死で抑える。
 そうしないと今にも叫んでしまいそうだ。
「それじゃあ、当日楽しみにしてるよ」
 コーヒーを飲みながらマスターを交えて茜と会話を楽しんでいた蘇芳は、コーヒーを飲み終えるとそう言い残して喫茶店を後にした。
 蘇芳が喫茶店を出る頃には、茜はチーズケーキを全て食べ終わり、お代りした紅茶を半分程消費していた。
 茜は残りの紅茶をゆっくり飲みながらのんびりと過ごす。
「まさか、君から蘇芳くんを誘うとは思わなかった」
 茜が蘇芳を誘った時、マスターは驚きで思わず手に持っていたコップを取り落としそうになっていた。それを思い出したマスターは笑いを含んだ声で言う。
 自分らしくない事をしたという自覚がある茜は、苦笑した。
「変るって決めましたから」
 茜は今まで他人との繋がりを積極的に作ろうとせずに生きてきた。そんな中で、初めて彼女はそんな生き方を変えようと決意し、行動している。公園で絵を描くようになったのも、この喫茶店へ頻繁に足を運ぶようになったのもその一環である。
「頑張る事は良い事だから応援しているけど、頑張りすぎて倒れないようにね」
 マスターは、応援と共に案じる言葉を茜に掛ける。
「十分気を付けます」
 茜は当たり障りのない返答をして紅茶を飲む。そんな彼女の反応にマスターは苦笑したが、それ以上何も言わなかった。
 マスターがカウンター内で作業する際に立てる音と、店内に流れている音楽を聞きながら、茜は紅茶を飲む。
「マスター」
 茜がマスターを呼ぶと、マスターは再び苦笑を浮かべて茜の呼び掛けに反応した。
「君にそう呼ばれるのは非常に余所余所しい気がするから、以前の様に呼んでほしいんだけど」
「紅茶をもう一杯下さい」
 マスターの要望を無視して茜は紅茶のおかわりを頼む。彼女の反応にマスターは小さく溜息を吐いた。以前も同じやり取りをしたのだが、その時の彼女の反応は全く同じものだった。
 茜のこの反応は仕方がないか、とマスターは自分の要望を諦め、茜のために紅茶を用意し始める。
 マスターの反応に茜は胸が痛んだ。だから、彼女はマスターに自分の胸の内を少しだけ話す。
「はっきり線引きしないと、甘えてしまいそうになるんです。今はそれが嫌だから・・・ごめんなさい」
 小さいが、聞き取れる程の大きさで茜が言う。
 彼女の言葉にマスターは寂しさを覚えつつ、そうかと返した。

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